『神様の祀り方拝み方』500万部発行計画

 『神様の祀り方拝み方』は肇國神祇聯盟発行、昭和15年12月発行。32ページの小冊子。そのチラシを見てゐる。謄写版で、ところどころ見慣れない漢字の書き方をしてゐる。神棚は神柵になってゐる。普の字は元の字を訂正して横に書いてゐる。元の字は変の字と混同したやうに見える。初めからやり直すのが面倒だったのだらうか。終はりから3行前には用の字を2つ並べてゐる。2画目が丸くなってしまったのが気に入らなくて、角ばらせてもう一回書いたやうだ。「普及を図り」の図の字も簡略化されてゐる。囗の中に子の字のやうなものが入ってゐる。同じ字が「各種団躰(体)」のところにも見える。これでは図も団も同じ字になってしまふ。官大は官幣大社の略。鶴岡八幡宮は囗中。国幣中社の略。全国も全囗にしてゐるが、国家祭祀は囗家とは略してゐない。祭の字の上部が発のハツガシラだと思ってゐる節がある。新聞の聞の字が門に身みたいなものが入ってゐる。

 内容を見ると、1月初めから20日までで6万部を突破!!と大書して、「如何に本書が必要かを雄辯に物語る」と誇らしげな様子。さらに「日々注文殺倒(到)素晴しい大反響」。いの字が左右逆になってゐる。一大宣伝をなし、500万部発行を準備してゐるといふ。「まとまつた注文があると思ひます」と期待を込めてゐるが、その後どうなったのか。終戦までに達成できたのだらうか。左下の頒布規定を見ると、大判は1部15銭で500部75円まで定価通りだが、1000部だと定価150円のところ145円と割引になってゐる。しかも送料が本会負担で無料とお得。

 斯道宣布の聖業と商品販売の営利事業が入り混じってゐる。といふよりも聖俗一致の大事業といへる。83年前の今頃は大いに盛り上がったことだらう。味はひのある文面をずっと眺めてゐる。

 

衛藤雅「霊界生活では勉強に専念できる」

 『守護霊の研究  誰にも必ずついている』は衛藤雅(えとう・ただし)著、サンロード発行、平成3年1月発行。

 11章にわたり霊界のことを記したあと、付録として「著者自伝『満州そして軍神山での修業』」を載せてゐる。衛藤は明治38年4月、大分県生まれ。血盟団事件の指揮者となるが、これは一人一殺とは別で、終戦時に大陸でソ連軍宿舎を襲撃した事件。引き揚げて兄の旅館を手伝った。兄の衛藤三千雄は18歳年長。川面凡児の高弟で稜威会の布教師をしてゐた。雅は兄から薫陶を受け、招霊や振魂に励んだ。

 霊界の事情は、招いた霊が教へてくれる。紹介されてゐる守護霊は江戸時代の武士など。これは霊界でも修業をする必要があり、われわれの守護霊になるためにはそれだけの年月がかかるため。現界のわれれは振魂で周波数を合はせて霊と交信する。守護霊は指導霊の力を借りて現界の悩みを解決してくれる。

 徳川時代の霊が現代の知識を持ってゐる筈がないので、霊界の話など創作であるといふ投書が来たが、これには次のやうに反論できる。霊界では学問に専念でき、何百年も研究が進展する。名医も霊界にやってくる。徳川時代の漢方だけでなく、西洋の医学も学んでゐる。現界の数十年しか学べない医者よりもはるかに優ってゐるのだといふ。

 霊界には医学だけでなく、さまざまな研究団体がある。それが類魂団。

 類魂団というのは同一趣味をもつ霊の集団ですから、歌、舞踊、音楽、書画、医学、文学などすべてに研究集団があり、勉強に余念がないのです。霊界生活では衣・食・住の心配がいらないので、勉強に専念できるのですから、その研究の深さが想像されます。

 このやうな専門家集団があり、われわれに有益な助言をしてくれるのだ。降霊の実例として、徳川家光の時代に生きた松平勝親の話が出てくる。岡崎の伊賀八幡宮宮司をしてゐて、霊界では天文学を研究してゐる。松平は現在の神社界を憂へ、本来の神道がいかに優れてゐるかを力説する。

 現在の神社仏閣は賽銭または寄付を要求し、おみくじを売り、神社を表面に置いて営利事業に没頭している。嘆かわしいことである。(略)

 神道がいかに清く、いかに美しく、いかに明るく、いかに楽しく秀でているかを、他教に比較して説けば判然とするのである。神道こそ、大宇宙の神髄であり、源泉である。世界各国の人類が神道を奉ずるようになったとき、神の声を聞き、世界平和は訪れる。

 神社に職を奉ずるすべての神官は、現在のごとく神社の経営に寝食を消費せず、惰眠を貪らずに古神道を研究して、声高らかに世界の人たちに日本神道を伝え、一日も早く世界平和が訪れるように努力してほしい。

 そのほか、滝沢馬琴が書いたといふ長寿の古文書、登山家が危難を逃れた辟邪の符の実物が載ってゐる。辟邪の符には短い象の鼻のやうなものを持った動物が描かれてゐる。

 

 

関東大震災から立ち上がった文雅堂の所国松

 「成功者立志編 附自力甦生道』は帝国勤倹奨励会発行、昭和8年5月発行。渋沢栄一ら立志伝中の人物22人を取り上げたもの。星一の見出しは「昔は貧乏の古本屋」。大阪朝日新聞の高橋健三や編集部員から300冊を得て、米国留学費にした。

 全体にぼんやりしたつくりで、本文では「明治大正 成功者立志伝」。これは30ページで、次に関東大震災の復興記「焦土より奮ひ立つ」が43ページあり、こちらの方が長い。さらに貯蓄奨励の文集が15ページついてゐる。

 「焦土より奮ひ立つ」は逸話集で、菓子の清月堂主人、水原嘉兵衛が京橋区役所に1万円寄付した話、越中屋米店の山崎松壽の母が震災後、へそくり1300円を子供に提供した話など20編。

 その中に「裸一貫から三階建 苦心の四十万円を煙にして復興した本屋さん」がある。文雅堂書店の所国松(当時39)に取材したもの。神保町から飯田町に引っ越して数日後に震災に遭遇した。大阪の兄の1000円と親族の見舞金を合はせた2000円で復興。7年間で3階建ての印刷工場に50余人の職工を抱へるまでになったといふ。

 兄の名は定一郎とあるが、『出版人物辞典』には所貞一郎として立項されてゐる。

 

 

・拙詠3首を得たり。

あらたまのとしをむかへてゆたかなるこゝろつかのまゆふになゐふる 

あしたにはよのたひらぎをいのりしをひのかたぶきてなゐのおそへる

よもすがらよせてはかへすみゝのそこよいおとしをとはづみたるこゑ

神様ノ無イ村をめぐって

 お正月だから神様が出てくる本がいいな。『故事物語 御国自慢ト負ケジ魂』は著者不明、出版社不明、作成年不明。昭和10年の日付の記事がある。

 文章はすべて直筆で、カナ文字ルビ付き。文字の上に訂正の線が引いてあったりする。手描きの素朴な絵は着色されてゐる。七福神の由来や「背水の陣」「いざ鎌倉」の言葉の意味などが雑多に書かれてゐる。力作だが現代人が読んで特に面白味があるといふものではない。

 その中の一編、「神様ノ無イ村」だけが異彩を放ってゐる。村長と奥さんが寝てゐると、大きな物音がした。庭を確認して戻って来た村長は、竹を縛ってゐた縄が切れただけで怪しいことはない、と言った。奥さんは、村長の体から「妙ナ冷タサト腥サ」を感じた。その後も村長は相変はらず親切だった。ただ神様のことが大嫌ひで、神様のことを聞くと不機嫌になった。

 ある年、東の国から西の国へ神様がやって来た。村長は病人のやうに閉ぢ籠もってしまった。代はりに奥さんが神様を出迎へた。神様は異様な空気を感じ、「コノ村ハ今恐ロシイ魔物ニ占領サレテイル」と、村長の家に案内させた。神様が大音声を発すると、それは正体を現し、村長を吞み込んで化けてゐたことを白状した。魔物は神様によって、甕の中に封じられてしまった。

 本編からは、特異な点が少なくとも2つ挙げられる。1つは異変の夜ののちの村長の様子。村長は今までと違った田畑の耕し方などを村人に教へた。収穫は2倍にも3倍にもなった。村長さんの薬はただ一服で病人が即座に治った。村人は生神様のやうに敬ひ心服した。決して疫病がはやったり天変地異の災ひが起こったりしたわけではない。村人は村長が居なくなってしまって悲しんだことだらう。世の常ならずすぐれたるものとはかういふものだらう。

 2つ目は文字通り「神様ノ無イ村」にある。魔物は神様によって封じられた。「コレヲ俺ノ仮屋ノ下へ埋メテ了フガヨロシイ」。そのあとはどうなったか。東から来た神様を祀る神社を建てたといふなら分かりやすい。この一編は神社の由来を書き残し、後世に伝へるためのものだといふことになる。しかしさうではない。村には神社はなく、鳥居一つ建てない。神様の社も村長さんのための祠もないのだ。

 本編には明らかな固有名詞が出てこない。外国の翻訳や翻案だとしても通じるくらゐだ。村の名前でさへ「神様ノ無イ村」「神無シノ村トイフ村」。これでは具体的にどこの地名だか分からない。あるいはまったくの作り話で、だから名前も地名もないのかもしれない。さうでなければ、本当にあった出来事が長い時間をかけて伝へられ、その間に具体的な名前が忘れられてしまったのかもしれない。

 



 

キササゲで儲けた栗原廣三

 『自伝対談 薬学の創成者たち』は伊沢凡人編著、研数広文館発行、昭和52年12月発行。伊沢が聞き役となって、21人の薬学者たちに自伝を語ってもらってゐる。それぞれの扉ページに略歴があり、人名事典の項目のやうに詳しく書いてある。

 文学者の家族もゐて、薬学以外の話にも読むところがある。山本有一は作家、山本有三の長男。家庭での有三について、

そとには、朝日の旗を立てたオートバイが待っている、社からはジャンジャン電話で催促がくる、父は一行も筆が進まない(笑)。

 と、ピリピリした雰囲気だったといふ。他人からは良い父親だと羨ましがられたが、実際は違った。蔵書は1万冊で、どれにも傍線が引いてある。

 辰野高司は仏文学者の辰野隆の次男。田中英光椎名麟三野間宏らとアヴァンギャルド文学運動や「夜の会」をしてゐた。その仲間の五味康祐が真剣に文学に向き合ってゐるのを見て、薬学に本腰を入れるやうになった。

 21人のうち一番魅力的なのは栗原廣三。明治21年5月、川崎町生まれ。佐藤惣之助らと文学を論じ、社会主義にも親しんだ。のちに転向し、安岡正篤の金鶏学院の講師になってゐる。転向の理由について「彼らには情がない。人間的つめたさに、すっかり嫌気がさしてしまった」。と吐露してゐる。戦時中は満蒙に薬草調査に出かけてゐる。昭和18年ごろには学院の同志らと食糧協会を設立。東条英機首相の資金で、役員には迫水(久常)も名を連ねた。ハトムギを食糧にする計画だったやうだ。

 『婦人俱楽部』『主婦の友』などの婦人雑誌には代理部といふのがあり、通信販売を行ってゐた。栗原は、キササゲの広告を載せてゐた。キササゲは細長い実をつける植物。主婦の友社はこれで売り上げを伸ばした。編者の伊沢が次のやうに回顧してゐる。

あの社があんなに大きくなったのは、雑誌よりも代理部の力だという話があり、その代理部を儲うけさせたのは、栗原さんのキササゲとかフジバカマ? だったという説がありますが……。(笑)

 雑誌本体よりも、代理部の方が売り上げに貢献したとする見方。これは現代でも雑誌の付録次第で売り上げが大きく変はるのと通じるものがある。

 

 

森比呂志の母「一人じゃ御輿は担げない」

 『川崎物語 漫画家の明治大正昭和」は森比呂志著、彩流社、昭和59年11月発行。森は明治45年4月、神奈川県生まれ。漫画家だが絵は表紙回りと各章のとびらだけで、文章で自身の生ひ立ちや川崎の情景をつづってゐる。父は石工の監督をしてゐて、暮らし向きは悪くない。学校を卒業した著者は家業を手伝ったり遊んだり、工場に働きに出てみたりと自由に暮らしてゐる。漫画については本の後半にならないと出てこない。

 川崎は江戸時代から水質が悪く、工場ができてからは肺病患者も多かった。友達が何人も顔色が悪くなって、結核になって亡くなってゐる。弁当は飯の上に海苔やイカの焼いたの。同級生はご飯なしで、新聞紙にくるんだ竹輪3本だけの子もゐた。竹輪を知らなかった著者はためしに食べてみて、衝撃を受ける。「こんな旨いものがこの世にあろうとは思わなかった」。昭和初年にキャラメル工場で働くやうになって、川崎駅前のパン屋の2階で、女性とフルーツポンチを食べた。女性は涙ぐんで「夢のようなの。とっても嬉しいの」と感激してゐる。

 関東大震災の際の朝鮮人騒動も描く。井戸に毒を入れられたなどといふ噂が広まり、自警団が組織された。しかし森の父はそれに加はらなかった。朝鮮人と親しかったからでも、噂がデマだといふ確信があったわけでもなかった。父はもともと徒党を組むとか寄合をするとかをできない性格で、消防団にも入らなかった。母は折々周囲に謝罪し、入り婿の父を罵倒した。

「この甲州の山猿め、お前さんの国では、みんな、てんでんばらばらに暮しているのかえ。だからお前さんの村じゃお祭も出来ないだろうよ。一人じゃ御輿はかつげないからね」

 隣近所はみんな力を合はせて暮らすのが当たり前なのに、こんな大変なときにさへ協力しない。そんな夫を、ふるさとまるごとひっくるめて非難する。そのときに引き合ひに出したのが祭りや御輿だった。渥美勝や丸山眞男のやうな学歴はないであらう、庶民の御輿論

 漫画とのきっかけは、石工の仕事先で見かけた報知新聞の社告。長編漫画を募集するもので、1等600円。1年分の給料に相当する。10日で描き上げ、見事当選。婦人雑誌などにも作品が掲載されるやうになり、地元で顔が知られるやうになる。

 父は、ポンチ絵で飯が食へるものか、石工の仕事はなくならない、と理解を示さない。仕事先の住職の娘は漫画に興味があり、著者が漫画の作り方を説明してゐる。

 バナナで滑った人がゐても、それだけでは漫画にならない。

「…バナナの皮ですべった主人公はツルリと天に跳ねて人の家の屋根の上に落ちた絵を描く。これを見て読者は声をたてて笑うでしょう。これは奇想天外だからです。そしてこんな馬鹿なことはあり得ないでしょう。あり得ないということは、実際にはこの世ではタダでは見られないということなのです」

 見かけたことをそのまま描くのではなく、机の上で構想を練る。さうして考へたぶんが評価され、原稿料となって作者に支払はれる。漫画の作り方を言語化した早い例ではないか。

吉澤貞一「整理していないラベルはただのガラクタ」

 「手のひらのメディア 吉澤貞一マッチラベルコレクション」は千葉県立中央博物館の展示。会期残り僅か。

 「第一章 マッチラベルを集めた人たち」はマッチラベル収集家、吉澤貞一の紹介。千葉・旧成東の出身で慶応の学生時代から収集し、総数70万点といはれる。海外とは文通で交換し、外国のラベル本を一冊手書きで翻訳するなどの情熱を傾けた。

 「第二章 マッチラベルことはじめ」。明治初期のラベル。仏壇などに使用する火は火打石だったので、マッチを使ふのは抵抗感があった。そこで神仏用の浄火であることを示す文言が印刷された。人気のデザインにはそっくりな類似品が出回る。会社名が書いてあるかどうかで見分けるが、展示担当者も間違へるくらゐ精巧につくられた。

 「第三章 マッチラベルに描かれた生きものたち」。クマの剥製、エビ、カニの標本が並ぶ。ラベルに描かれたいきものを生物学的に同定する試みがユニーク。分類不能の、イメージの中にしかゐない謎ガニだと専門家が指摘する。

 「第四章 マッチラベルから世相を読む」。日露戦争の後、日本一、世界一、東洋一など「〇〇一」のラベルが生まれる。昭和の一時期、「健康」が流行語になり、観光地や旅行関係のラベルに多用される。防諜など戦時スローガンのものもある。

 終はりに吉澤氏の写真パネルがお見送り。「整理していないラベルはただのガラクタ」と、ただ集めるだけではなく整理の重要性を教へてくれる。

 実物のラベルは小さいが、壁面には大きく引き伸ばされたパネルが大量に展示されてゐるので壮観。中央のケースには「大元帥」のラベル。明治天皇を指すので不敬だとして発売中止になったはづが、ごく少数出回ったもの。

大型スクリーンが左右に2つあって、展示しきれなかったものが上映される。4秒ごとにどんどん入れ替はる。これも大きくて見応へがあり、座って見られる。人力車に乗った猫とか、千葉の稲生書房のものもあった。

 満足して帰らうとしたら、第二会場の案内があった。これが「第五章 マッチラベルを通してみた盛り場」。1枚のチラシでは「第五章 マッチラベルいろいろ」で第六章が「~盛り場」だが、4ページのリーフレットでは全五章になってゐる。

 その第二会場、博物館とは思へないやうに妖しい。モダンな女性たちが門の形にコラージュされ、入り口には黒い暗幕が垂れ下がってゐる。文化祭の一角のやう。

 中の壁面にはカフェーのラベルのパネルがたくさん展開されてゐた。デザイン的に面白いものばかりで圧倒される。タイガーは店名の通り虎の絵で、何種類もあるがやけに力が入った描き込み。女性の写真をそのまま印刷したものもある。「悪の殿堂 お兄ちやん」「オバサン」など店名を眺めるのも楽しい。

 図録や本にする予定はないさうなので、第二会場分だけでもどこかで出版してほしい。