林耕之「斯うも神道観の違ふのは妙なことだと思ひます」

 

  『神道神学交論』は林耕之・上條馨共著、昭和29年5月、五十鈴会発行。序は神社本庁事務総長の吉田茂

 始まりは28年4月、山梨県神職、上條が新報紙上に「神道宗教化の為に」を発表したことによる。上條は大正10年3月生まれ。折口信夫神道論に共感したといふ。論文では国家神道を超克し、神社神道を確立することを訴へた。そのためには神々の性格を定めることが必要で、上條は神道の神を皇祖神・祖先神と宗教神に分けることを主張した。血のつながりを重視する祖先神は国家神道的色彩を帯びざるを得ない。これに対し、世界の森羅万象を顕現させたのが宗教神。この完全全能神を個人が信仰することが、これからの神道興隆につながるのだといふ。

 これに反論したのが富山県神職、林。明治35年1月生まれ。二人は館友で、林が大正13年、上條が昭和17年卒の先輩後輩に当たる。共著者名で林が先になってゐるのもそのためであらう。神職同士でありながら、二人の主張は正反対。林は「私は神道の生命は血縁によつて発展するものと信じる」。戦争をしたことについても、侵略ではなく「正邪のけじめ」のために戦ったのだと日本の立場を弁護する。

 この反論文が8月に掲載された。その後、両者は新聞を離れて直接手紙や葉書でやり取りを継続した。互ひの経歴を教へ、神道神学について論じあった。紙上に掲載されたのはほんの一部。本書には神学上の重要な問題が多数論じられてゐる。

 上條は武力を否定。「刀や鉄砲をふり回す様な宗教にロクな宗教はありません」。血縁についても、重視すべきではないといふ。

宗教の根本を血縁関係にのみ求めるのは間違つていると思います。(略)霊そのものをあらしめる根本は血縁以外のものであります。宗教が血縁で止つているのでは、ただそれだけのものと云う外はありません。 

  林は「霊は血脈なり 血脈の相通ずるところ霊魄の閃きあり」といふ旧著「霊祭解義」を用いて反論する。さらに、記紀から絶対神信仰だけ抜き出す上條を戒める。

古代人の神観をかへてまで新時代の宗教なみに時代に迎合する理法を見出す必要は私にはありません。古事記に 表れてゐる宗教と道徳と政治との交錯した伝承の中から、所謂文明教の絶対性だけを摘み出して、知覚宗教を発明せねばならぬ道理はどうしても奇異に感じられるのです。

 「神宮のお膝下で四年間も学んだ神主同志が斯うも神道観の違ふのは妙なことだと思ひます」(林)。

 

 

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河越恭平「我等は別に錬成会式の直会法を案出した」

 『国民皆行 みそぎ教典』は河越恭平著、東京市職員修行部禊会編纂、明徴社、昭和17年1月発行。河越は東京市勤労報国会講師、東京市職員懇談会講師、東京市職員修行部理事の肩書がある。東京市職員修行部といふのが気になる。

 大政翼賛会中央訓練所が採用した、川面流の流れを汲む禊について、意義や実際の作法について述べられてゐる。

 

所謂東亜共栄圏の建設は帝国存立の急務なるにも拘らず之に対する国民の気魄には、ともすれば挺身奉公の精彩が乏しかつた。(略)嗚呼是れ果して誰の罪ぞ。我等の禊は斯の国民的罪悪に恐懼して、其の因を為す一切の禍津毘を神の稜威に祓ひ清めんとする懸命必死の聖行であつて、固より修養の為でもなければ、健康の為でもない。

 

  非常時だといふのに、国民には緊迫感が足りない。その罪を祓ひ清めるのが禊といふ聖行である。さうして宿敵米英の打倒にも邁進できる。

  河越の説く禊は、実は川面流を時局に合はせて改変したもの。

 川面流に於ては、肉我征服の為に断食、減食、禁酒、禁煙を行はしめ、減食は一日玄米八勺を粥として二回に与へ、副るに胡麻塩及梅干二三個を以てするのである。然るに我等の禊は概ね他に体錬其他の錬成を伴ふので、食事は平食を原則としてゐる。

  川面流では食事を減らしたり断食をしたりした。しかし現在は体を鍛へるためにも、さういふことはしない。また、川面流では食前祝詞豊受大神天津神国津神を祭る。しかし河越らは「箸とりて飯を食ふにも大君のおおみめぐみと涙こぼるゝ」といふ佐久良東雄の和歌を合唱する。

 まだある。禊ののちには普通、参加者が直会で酒や食事を共にする。しかし物資不足などもあり、「我等は別に錬成会式の直会法を案出した」。

一同神前に円陣を組み、互に手と手を固くつないで

  海ゆかば水つく屍山ゆかば草むす屍大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ

 の歌を、声高らかに合唱するのである。 

  酒などは飲まずに、円陣を組んで手を結び、「海行かば」を合唱する。食前祝詞と同様に、神道色・宗教色が薄められてゐる。書名に国民皆行とある消息がうかがはれる。

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荒原諸兄麿「聖書を熟読すべし、古事記と古典を愛読せよ」

 『基督教天皇論』は荒原諸兄麿著、日本ホーリネス教団発行。20ページ。終戦後だが正確な発行年不明。聖書と記紀、基督と天皇の仕組みを同様に説く。これにより日本の再建を訴へる。

日本は古来天之御中主神による一神三位一体教で仏教渡来以後天照大神のみを偶像化した所に、神道の堕落を見るのであつて、この日本が敗戦と共に神国の昔にかへり、一神教の昔に新生成し得べくばバイブル的神国主義の平和日本再建は可能となるのである。

 多神教の日本が戦争に敗れた今こそ、仏教渡来以前の一神教的な神国に立ち返るのだといふ。神・君・親からなる倫理規範を重視し、これに絶対随順することを唱へる。

 「天皇とは、天地の創造神の命を以て聖旨を体して、日本国家と民族を統治する人格者」。天皇を主権者として服従するのは日本民族の義務である。

 大嘗祭も基督教のバプテスマ(洗礼)によって説明される。

 基督教がバプテスマをもて、俗悪なる世よりセパレートされて、神人合一の体験に入る如く、天皇様が天皇として一系の継承をなす即位式前の、神人合一の行、大嘗祭こそ、日本人の道を失へる国賊共には、理解出来ぬ荒行もて、天皇の修養即ちみそぎをもて、バプテスマ神人合一の天皇学への荒行が執行さるゝのである。

 荒原自身も昭和16年、必勝を 天之御中主神(天神、エホバ)に願ひ、二見ケ浦でバプテスマしたと振り返ってゐる。

 神武天皇が137歳だったといふことを挙げて嘘だといふ指摘には、聖書にはアダムが930歳と書かれてゐることを示して反論する。「この聖書的歴史観こそ、基督教的歴史観であり、不可解もないのである」。

 荒原の熱願は次の言葉で締めくくられる。「聖書を熟読すべし、古事記と古典を愛読せよ」。

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小山松吉「殊に婦人の主義者といふものには恐るべきものが時々出るのであります」

 『越佐社会事業』は新潟県社会課内務内中野財団発行。昭和10年12月号が第7巻第12号。この中に前司法大臣、小山松吉の「思想犯罪と方面委員」がある。思想犯人、いはゆる主義者がなぜ生まれるのかを論じたもの。理由にはさまざまあるが、その一つは貧窮であるといふ。

 文化が進むとデパートなどといふものができてくる。これがいけない。

スペインの或る刑法学者は、デパートは犯罪発生の場所であるとまで極論してゐる。あそこへ行つて物を見ると買ひたくなる、買ひたくなるが金がないからどうかしなければならぬ、万引がデパートでよく行はれるのはさういふ原因であらうと思ふのであります。婦人の心を唆るやうな、買はねばならぬやうなものを並べて置くからして、それがためにつひ悪いことをするやうになる。 

  これと似たやうに、貧窮してゐる人が社会主義の本を読んだりすると、共感して主義者になる。貧窮してゐなければそもそも社会主義に興味を持たない。だから思想犯を生み出さないためには、貧しい者を助けることが必要だと論じる。

 主義者になる人の傾向では、勉強ができて神経質な人がなりやすい。不勉強で体が丈夫な人はなりにくい。「ベースボールとか剣道などやるものは学問の出来ないのが多い」。

 社会主義に関係するものは書物をよく読んで、頭のいゝものばかりである。一方いゝ方に向ければ優秀な国民になるべきものが、ちよつと道が外れて横へ行つたがために、極端なところまで進んで行くといふことになるのであります。

  婦人の主義者の傾向も挙げる。「婦人の主義者は大概独身の人であります。婦人は大概女学校の卒業生である」「殊に婦人の主義者といふものには恐るべきものが時々出るのであります」。

 

相当に学問をした婦人の主義者に向つて、取調べをする役人の方から、「どうしてさういふ考へをお前は持つたのであるか、日本の婦人としてさういふ考へを持つべきではない」と云ふと、「私は日本の女ではございません。人類の女であります。世界的の女であります」斯う云つて答へる。斯うなると問答が出来ない、所謂箸にも棒にもかからない、日本人たる資格を必要としないといふところにまで女の考へが進んでをるのであります。

 

 

  ほかに小川未明の和歌や相馬御風の随筆も載せる。須藤鮭川が「自嘲」と題して、15首の連作を寄せてゐる。すべて結句が「老いゆかんとす」で、読んでいくと居たたまれなくなってくる。

晩酌にすこしゑひつゝ世のことを憤りつゝ老いゆかんとす

一管の筆は執れども売文の徒たるに過ぎず老いゆかんとす 

 

万朝報で結跏趺坐をした安藤覚


 『相模聖人と讃えられる宗教政治家 安藤覚伝』は遠藤徳英著、厚木市民情報社発行、昭和48年11月発行。厚木出身の国会議員、安藤覚の伝記。製本は簡易だが、本文292ページで内容は充実。安藤の七回忌に刊行された。子供のときからの各時代の証言や談話が丹念に集められ、読み甲斐がある。序文は河野謙三

 安藤は明治32年生まれ、昭和42年没。父の憲三は曹洞宗住職で法名、大安無我。安藤自身も曹洞宗の住職。いたずら好きな少年時代、日大宗教学科の学生時代を経て、新聞記者を目指す。万朝報の試験を受けるが不合格。そこで安藤は座り込みを決行する。

毛のすり切れたオーバーをキチンと畳んで廊下に敷き、その上に坐り込んだ。それが結跏趺坐の坐禅だった。軍隊生活中でも苦学をしてからも一日も休んだことのない坐禅だった。これなら十時間でも二十時間でも平気である。(略)社内はどこもかしこもこの坐りこみ男の話で持ち切りだった。四日が過ぎて五日目の朝、給仕に呼ばれて応接室に入ると、山田社長と斯波編集長が笑顔で待っていた。

「いや、安藤君、わしの負けだ。完全なわしの負けだ。採用しよう、正式に採用する」 

  正力松太郎の読売新聞に移ると、従軍記事や講演が評判になり、政治部長兼編集局次長にまでなる。通算記者生活が17年になったところで、胎中楠右ヱ門の地盤を継いで神奈川三区から出馬。昭和17年の翼賛選挙で初当選する。三区は河野一郎片山哲らの選挙区。落選することもあり、選挙戦の様子も読みどころ。

 終戦直後、厚木飛行場の台湾工員騒動の収拾に乗り出す。当時、台湾工員が農家を襲ひ食料を持ち出したり電車を無賃乗車するなどして、一帯は無政府状態だった。天下の浪人、高山男也が叩き斬る計画をしてゐたのを安藤が止め、単身台湾工の宿舎に乗り込んだ。食料不足が原因だと分かり、間もなく解決した。

 非常に清廉で、講演をしても謝礼を受け取らなかったり、人知れず人助けをしたりする。「相模聖人」の所以で、戦没者慰霊や日韓条約特別委員長にも力を入れる様子が描かれる。

 しかしその安藤でも、時には選挙違反をしなければならないときがあるのだといふ。かつて記者時代に面会した、梅津勘兵衛の言葉を引いて心情を吐露する。

 

法律に触れることを承知で違反をせにゃならぬこともある。信義に欠けると知りながら友を裏切らねばならぬ場合がある。しかし、その時おれは、梅津勘兵衛親分の言葉じゃないが、いつもびくびくと細心の注意をして、天を畏れ自分の良心に詫びて、謙虚な気持ちでやっているんだ

 

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第一徴兵保険の社員にお礼を言った高木恵三郎


『第一徴兵社報』は第一徴兵保険株式会社発行。昭和9年12月発行号が123号。26ページのうち、16ページが模範契約者の紹介で、赤ん坊や家族の写真であふれてゐる。生まれてすぐに保険の契約をしてゐて、裕福な家庭が多い。

 次に多いのが10月18日に行はれた、靖国神社神門の献納奉告祭、竣成奉祝祭の記事。神門は第一徴兵が献納したものだった。扉には大きな菊の御紋があしらはれてゐる。写真では参道の中央に祭壇を設け、太田社長らが玉串を捧げてゐる。参列者に葦津耕次郎同社相談役の名前はない。賀茂百樹宮司直会の挨拶に

皆さん一寸御覧になりますと他の建物と調和が取れぬ様にお思ひになるかも知れませぬが、当神社は計画を定めて一時に造営せられた神社でなく、本殿は明治五年に、拝殿は同三十四年に建築したるが如く、七十年の間に、その時々に従つて造られたのでありますから、已むを得ぬ事であります。 

 とある。建造物は年代がばらばらなので調和が取れないのは仕方がない、あとで篤志家が出てきれいに造営してくれるのを待つのだと言ってゐる。

 囲み記事の社内ゴシップといふのがいい。

 

 十月廿五日午後二時頃、本社の六階へ一人の熱血漢が訪問して来て「一番偉い人に面会したい」と申出られた。重役不在の為山田庶務課長が面会すると、「此の度靖国神社へ立派な神門を献納された事は誠に感激に堪えない。社員の方に一人一人お礼を述べさせて戴きたい。」と熱心に頼み込んだ。(略)

 此の六階の人々だけにでも礼を言はして貰ひたいと言つて、社員を中央に集め「現今弓削道鏡のやうな資本家ばかりの多い中にあつて、此の会社が靖国神社にあれほど立派な神門を献納されたといふことは非常に感謝に堪えないことであります。(略)」と感涙に咽びながら挨拶をして帰つて行かれた。久留米の人高木恵三郎といふ憂国の士である。                                                                                                             

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中村孝也「内鮮融和は相互の必要である」

続き。中村孝也が国史教育でもう一つ改善したいことは、朝鮮について。

実に我が国史は朝鮮を除外しては正しく理解し得られないのであります。(略)そして学んで得るところのものは、朝鮮は政治的に独立力の弱いところであるといふことである。それは朝鮮の歴史が極めて明白に示してゐる大いなる事実である。その朝鮮は内地と融合し同化することが最も正しく且幸福である。内鮮融和は相互の必要である。 

 日本書紀では神功皇后が朝鮮を攻めたとき戦闘はなく、一人の死傷者もなかった。王子は人質に取られ、工芸品を奉献させられた。皇后側が戦はずして勝った。しかしさういふことは改めて教へるべきではない。

 知らない人々に一千数百年前の所伝を知らせて、新たに内地に対する不快と敵愾心とを挑発することありとせば、教へるは教へざるに若かず、内地の優越感を以て朝鮮に臨むことが教育の本義から見て避くべきことを知り得るでありませう。

 朝鮮の人が不快になるやうなことは、教へない方がよい。文化的な交流とか、神功皇后新羅天日槍命の子孫だとか、内鮮融和に役立つことを重点的に教へるべきだといふ。

 豊臣秀吉朝鮮出兵についても、改善案を示す。

朝鮮出征といふ事件を扱つて、そして内鮮相互の敵対感情を誘発させることなく、却つてこれを利用して、雨降つて地固まるの譬のごとく、内鮮融和の資に供しようといふのだから、一見無理な注文のやうに見えます。併し必ずしも左様でありませぬ。