スプーンを曲げられる高濱正明

『運鈍根の男の伝』は高濱正明著、ウサミプロダクション共同企画の企画・編集、平成7年11月初版、8年7月再版。

 高濱の自伝。父の●(青+光)作は明治15年1月生まれ。帝国興信所(帝国データバンク)新潟支店長を務めた。正明は大正7年1月生まれ。ウナギの養殖業などののち、茨城・日立で金馬車の名前のパチンコ店やレストランを経営した。戦中のことを回顧し「兵役につくのは当然のこと」「強制されたという思いは、ほんのわずかも、千分の一程もない」。アメリカ人のポール・ソロモンも日本人の礼儀の良さを褒めてゐたと紹介する。

 ポール・ソロモンのことは第5部「精神世界について」に出てくる。高濱はソロモンにも会ひ、「日立第三の目」といふ、精神世界の充実をはかるグループを主宰してゐた。メンバーは茨城キリスト教学園総長・理事長、浅野春三の四男の信、市役所勤務の滝口悟ら。

 

 

 瞑想をすると、額の第三の眼の辺りに薄紫色のものが浮かんでくる。あまり瞑想をやらない時は、白色。もっと集中すると紫色になってくる。私は、五、六年前からスプーンが念力で曲げられるようになった。

 

  ビジネスには見えない力も大切だと説き、「虫の知らせ」による直観力で経営を安定させられるのだといふ。

 

 

日本新聞社の名刺広告の申込書。もう使へない。

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ノルウェーの新聞に載った頭山翁

 『新聞の今昔 激動する新聞戦国史』は河合勇著、新日本新聞社発行、錦正社発売、昭和47年12月。河合は明治32年生まれ、大正12年4月早大英文科卒、東京朝日新聞入社。戦後は日刊スポーツや新日本新聞で働く。

 新聞の起源から説き起こし、大小さまざまの新聞を紹介。終はりに自身の回顧録「新聞生活五十年」を付ける。数が多いので仕方がないが、一つ一つの新聞については短く触れる程度。

 中では自身が在籍し、この本の発行所でもある新日本新聞社については、他ではあまり見ない。同社は昭和21年、小寺謙吉を初代社長としてスタート。

戦争直後の大新聞の多くは、従業員組合の幹部は共産党系の左翼分子に握られ、社説から記事に到るまで全体が左翼支持となって各会社のストライキ騒ぎを煽動する傾向さえ見えて来た。この風潮は放って置けない。 

 そこで関西の財界人らが結集して「日本の良風を守る新聞」を興した。杉道助、古田俊之助、伊藤竹之助、津田信吾、小寺、加藤正人、菊地文吾、大原総一郎、松下幸之助大屋晋三の名前を挙げてゐる。2代目社長は福岡の香月保といひ、著者と親しかった。河合は同紙に毎号社説と読み物を書いてゐる。

 河合は朝日では運動部としてベルリンオリンピックに特派される、二・二六事件の報はノルウェーで受けた。

 

 翌日ノルウェーの新聞を見ると、頭山満の写真が大きく出ていて、日本は右翼の天下になったように報じている。また臨時首相に後藤がなったとして、あご髯をつけ、鼻めがねをかけた既に死んでいる後藤新平伯の写真が出ているのでノルウェーの記者に「これはちがっているよ。後藤文夫だよ」と教えてやった。

 

ノルウェーにも知れ渡ってゐた頭山翁。

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・1888年が2回でてくる。

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三井信「神は唯空漠に存在するにあらず」

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 『聖勅奉行読本』は大正15年12月、聖勅奉行会発行。同会は久我常通会長、三井信理事長。

 陸軍少将・男爵の黒田善治が篆刻した、教育勅語の掛け軸を頒布するために組織された。黒田は尼港事件に出兵した際、病を得て、左半身不随となり帰国。難波大助の虎ノ門事件を契機に思想戦に臨むことにした。はじめ教育勅語を100枚書写し、更に続けようとしたところ、過労となり周囲から止められた。そこで篆刻に切り替へた。書は筆者の性格が表れるが、篆文は人格を超越したものなので、聖句にふさはしいのだといふ。「…命を損することあらんも悔ゆる所なし、寧ろ本願なり」。

 篆刻は研究を重ね、図案にも工夫を凝らしたもの。写真と字解が載ってゐる。「博愛衆に及ぼし」の字句は、赤十字の形。中心の「徳器を成就し」はハートの形になってゐる。「義勇奉公」は楯の形。

 この本はそれらの解説。日本神話についても、祖先の理想信仰が表されてゐるとして、特に天岩戸の前の真賢木を取り上げ、取り付けられた勾玉、鏡、和幣を重視する。

 

識る神は対照を得て、初めて御光を輝かし給ふ事を、神は唯空漠に存在するにあらずして、万我万物なる対照を得、こゝに弥栄の神霊を発露し給ふなり

 

 神はかたちを得て真価を発揮するといふ解釈で、この掛け軸もその考へが反映されてゐるとみられる。

 東郷平八郎元帥の言葉として、 

 

各家庭に於いても、少くとも、毎週一回は、御勅語を奉読して、常に念頭に置かしめ、実践躬行するやう、心懸けて貰ひたい。                                            

 

   とあり、実践を奨励してゐる。  

 

 

・編プロ公妨人柱エンドロール最後まで見る                           

杉田有窓子「その際にお伴を仕りたい心境である」

『天の窓 杉田有窓子詩文集』は東海日日新聞社、昭和47年1月発行。序は宇垣一成。杉田は明治40年豊橋生まれ。同社の前身、東三新聞を創刊した。戦後間もなくからのものをまとめた随筆は2段組みで情報量が多い。岩下壮一神父を描いたもの、財団法人光明皇后会設立者としての挨拶などがある。独特で物議を醸しさうなものに天皇論がある。

 杉田は反天皇制ではなく、国体を護持するためにこそ天皇は退位すべきだと説く。憲法・法律上、天皇に戦争責任がないことはその通りだが、道義的責任はあるはづだといふ。

祖宗の御霊に対し奉り申し開きの出来ぬ苦しさをお感じになっておられるに相違ない。その大きな責任をおとりになって、日本の折り目切り目をつけ、国民に本当の道義の在り方をおしめしになることは、陛下の自発的な御退位によるほかないと我々は考えるのである。 

 天皇制廃止論を抑へるためにも、御退位によって道義を明らかにすべきだと説く。そして天皇崩御したらその神霊はアジア各地に陳謝に行かねばならない。

 天子の御霊はその時にお淋しい限りであるから、もし進んで従者となるを欲する者があれば、これに越したことはあるまい。 というわけで、私はその際にお伴を仕りたい心境である。

 と、断食して昭和天皇に殉死するのだといふ。

  共産主義天皇とも共存できる。

天皇家は長い間鎌倉幕府や北条・足利と共に、織豊・徳川とも共に存続された。平和共存である。 

 杉田の考へはあちこちに広がる。「日本の姿勢を正せ」と題した文章では、ニューギニア移民計画や中野正剛・天野辰夫らとの東条内閣打倒運動などに携はった関田由若の紹介から、天子自決論、皇居跡へのアパート建設論、国会議事堂を納骨堂にして楠正成も徳田球一も祭る論、それから与野党の国会議員を一人づつ交互に座らせる案へととめどがない。

横井時常「悪い縁起はない」

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『ツキをよびこむ 縁起の本』は横井時常著、すずらん書房発行。昭和50年5月15日初版発行で手元のものは51年7月30日の5版。カバー装幀高橋雅之、本文イラスト上田武二。

 手元のものは献呈の和歌付き。「吾が言葉校正もみずなりしふみ後の祭りとなやまし?…」と読んでしまひ、なかなか最後まで解読できなかった。

 名前は時常と書いてトキヒサと読む。靖国神社権宮司などを務め、執筆時は近江神宮宮司。独自の神学の持ち主でもある。

 内容は著者の縁起にまつはる随筆集。語源や解釈は著者独自のものも多い。

 

結論からいえば、〝悪い縁起〟はないのである。すべての縁起は〝吉〟である。

 

 仏滅は本来払滅で、悪しきことを払ひ滅すること。最も縁起がいい日で、昭和天皇が昭和46年に訪欧した日も仏滅だったといふ。

 横井自身の理想の葬儀も一風変はってゐる。

 私の葬式は、祝いの〝祭〟にしてもらいたいと考えている。

 まず、家に紅白の幕を張りめぐらし、みなさんに集まっていただいて、酒を大いに飲んでもらい、陽気にドンチャン騒ぎをしてもらおうと願っている。決して冗談をいっているのではない。

 

 自分の好きな道を歩み、感謝してゐる。発行年の昭和50年には歌会始にも入選した。子孫も健康で、いつ死んでも悔いはないのだといふ。

 読めなかった献呈署名は、ある日ふと読めるやうになった。「なやまし」ではなく、「阿やまり」であやまり、誤り。校正もしてないので「阿やまり多し」と詠んでゐる。

林銑十郎「大部分がインチキだねえ」

 『孝子・林銑十郎』は鍋田勇吉著、光輪閣、昭和45年9月発行。光輪閣叢書6。縦長でビニール装。著者が直接体験したことを中心に、林銑十郎の姿を生き生きと描いた。70頁と分量は多くないが、どの逸話も公式には伝はらなさうな裏面史ばかりで面白い。

 林は名刺や郵便物を丁寧に分類、整理してゐた。秘書が百貨店の売り出し案内だからと思って渡さずにゐたところ、ちゃんと届けるやうにと注意された。林の弟の「うちの兄に適した仕事は図書館のカード整理係だろうな」といふ言葉からも、几帳面ぶりが知られてゐたことがわかる。ああいふ細かくて正確さの必要な仕事がお似合ひだと思はれてゐた。

 総理辞任後は日本精神を顕揚する日本国教大道社の社長に就任。長年の負債が発覚したが、肩代はりをする。そのくだりが清々しい。

 大道社の経営は苦しく、著者が入社して初仕事は『川合清丸全集』のセールスだった。のちの靖国神社宮司、鈴木孝雄も訪問。皮肉屋としての顔を伝へてゐる。

  林は各種の団体から会長や総裁に推戴された。

 

「このわしを、総裁だ、会長だといって担いでいる団体が、数えてみたら六十以上あるが、その大部分がインチキだねえ」

 

 だといひながら、インチキの中にホンモノがあるといって気にしなかった。

 ただ、

 

神道家が四、五名そろって将軍を訪ね「日本は神国だから、神道一本でゆくべきである、というわれわれの信念から、仏教やキリスト教を撲滅するため、神道興隆会を設立する計画だから、是非閣下が総裁になって戴きたい」と、滔々と弁じた。

 

 この時には引き受けずに追ひ返してゐる。何が気に入らなかったのか。林の名義の文章を代筆者が見せても、ほとんど修正しなかった。草津ハンセン病患者の施設、楽生園では入園者を励ました。

 著者は、林にはこのやうな寛仁な面と「越境将軍」と呼ばれた果断な面が同居してゐたのだと指摘する。

 

佐伯郁郎「詩は燃焼した感情の頂点をとらへたものである」

『みくにの華』は大日本傷痍軍人会発行の機関誌。月1回発行の12頁建て。傷痍軍人へのお知らせや相談欄などがあり、桜井忠温が読み物を寄せたりしてゐる。

 文苑のページでは俳句と短歌と詩を募ってゐる。選者はそれぞれ水原秋桜子、杉浦翠子、佐伯郁郎

 大家と肩を並べた佐伯は

参考に私の近作を掲げます。内容から自然に形式が整つて行くやうに表現することです。 

 と、「花信」を載せるなど、力を入れてゐる。山崎部隊長への自作の詩「われら眦を決して起つ」では「心せよ米英よ」とも呼びかける。同欄に佐伯の詩集の紹介もされ、他の選者にはこのやうなことはない。

詩は文章を区切つた短文ではない燃焼した感情の頂点をとらへたものである。歌の対象をはつきりと捉へて、それに的確な表現を与へる修錬を積むことである。 

 と詩魂を述べる。アドバイスでは形式に流れないこと、想を練ることを強調してゐる。投稿では小笠原菜々子の作品を評価。その「叉銃線」には「ヒマワリが正午を肯定し」「銃剣の重みもなつかしい昨日の忘れがたみ」などの巧みな表現がみられる。

 ともに他人の文を読むことは同じでも、検閲はマイナス評価をつけるが詩の選者なら良い作品を取り上げる。燃焼した感情の頂点といふのも、傷痍軍人に期待するものがあったのではなからうか。

 

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