川崎に計画された義士神社

 

『日本義道会趣意書』は10ページほどの冊子。奥付はないが、文中に皇紀2596年8月とあるので昭和11年以降の発行。

 かつて、赤穂義士大石良雄が討ち入り前、川崎の平間村に家を建て、同志糾合の場所としたという。日本義道会はこれを記念し、各種の事業を行ふ。

 記念碑は設計図が載ってゐて、高さ17尺とあるので5メートルを超える大きさ。青年団が地均しをしてゐる写真もある。

 

更に義士神社を創建し、而て赤穂四十七義士の忠魂義胆の英霊を主に、其他古今を通じて世に埋れたる忠臣烈士にして、苟も国家の儀表として崇拝すべき幾多の雄魂を併祀し、以て西の赤穂及び京都山科の両大石神社と比肩し、万代永劫に我が祖国日本の守護神たらしめんと志す。 

  赤穂義士だけでなく、古今の忠臣や英霊を祀り、日本を守ってもらふのだといふ。これなら幕府も政府もなく、官軍賊軍もない。義を発揮した人はどの時代にもゐただらう。義勇や正義の観念なら国境を越えて通じるものもあるだらう。

 計画はそれだけでない。日本義道会館には赤穂義士の遺品も所蔵、展示する。頭山翁や渋沢栄一らが、遺品を見て揮毫した書も集められた。日本義道塾には全国から選抜した学童47人を入塾させ、有為の人材を養成する。

 これほどの大計画なのに、どうも記念碑さへ建てられなかったやうだ。

 f:id:josaiya:20190704230622j:plain

 


 

『神ながらの道』しか読んだことがない小原さん

 佐藤勝治『宮澤賢治批判 賢治愛好者への参考意見』は十字屋書店発行、昭和27年12月発行。発行元は現在は神保町の新刊書店。

 佐藤はもと宮澤賢治の研究者で法華経の信仰者だった。しかしこの書は一転して、賢治への批判をぶつけてゐる。その論点は、賢治はただ祈るだけで、社会改革に乗り出さなかったこと、裕福なものとしての立場であったことなど。

 

雨ニモマケズ」はまるで寝言です。あらゆることをよく見ききしわかるのも、賢治のように、本でもレコードでも好きほうだいに買える身分でいえることです。

 そのためマッカーサーの改革を評価した。

 

 マックアーサーは、まさしく日蓮の言つた「隣国の聖人」であつた。次々と出される日本改革の諸指令に、私は歓呼の声を上げ、総司令部に感謝した。

 

 まえがきは終戦の日前後の回顧。高村光太郎のために家を建ててやったりしてゐる。その後に、ふしぎな人との出会ひを書き残してゐる。

小原某という三十位の人と、ある晩偶然にも校庭の草原で語り合つたが、その人は自称「神ながらの道」を信仰する人で、本は生れてからただ一冊しか読んだことは無い、その一冊の本というのが、八百何十頁もある「神ながらの道」≪筧克彦≫で、彼はそれを何年間かくりかえしくりかえし読んでいるといつた。 

  生まれてから読んだ本はただ一冊。それも筧克彦の『神ながらの道』だけだといふ。学生や学歴のある人だったらそんな生活はまづできないから、まったく市井の、学問にも縁遠い人だったと思はれる。なぜ小原は『神ながらの道』を何度も読んだのか。

その本から得た信念によるに、今の戦争は不義の戦争であり、神の罰によつて日本は必ず敗けると思っていた。敗けたあとでよくなるのだ、だから敗けたのは神のおこころであり、これからよくなるのだから自分はうれしい、と彼は語った。 

  戦時中、電気も来ないやうな田舎で『神ながらの道』を読んで過ごした。聖戦への使命感とか戦意高揚を読み取ったのではなく、不義の戦争とその結果の神罰を読み取った。筧の神がかりの言動には批判や揶揄が多く、このやうに読まれてゐたことは知られない。

 佐藤は終戦の日以来、「ぞくぞくと身が震える程のこのよろこびを、私はどうすることもできなかつた」とよろこんだ。小原も不義の戦争が終はり、神意が示されたことにうれしさを感じた。

広瀬喜太郎「わたくしは一種の戦慄をおぼえる」

 続き。明治39年、広瀬喜太郎が中学二年生だったときのこと。当時富山・高岡に図書館がなかったことを残念に思ひ、先生にその必要性を訴へた。念願かなって図書館が出来ることになり、開館式にも招かれた。

わたくしは異常の感激を覚えた。ああ図書館―夢にまで描いた図書館である。その図書館が実現した以上、その開館を如何に待ちこがれたであろうよ。

しかしこの感激もすぐに失望に変はる。設備も蔵書もあまりに貧弱だったから。

わたくしは図書館というものにつくづく失望したばかりでない、もうほとほと愛想を尽っきらかした。わたくしはこの時から図書館などにたよるべきではない、買おうにも買われないような書籍ならいざ知らず、本当に自分の読みたい書物、読まねばならぬ書物なら、何を節約してもそれを購うことに決意した。 

 期待と失望と決意が痛ましい。市立高岡図書館は明治42年の東宮殿下(大正天皇)北陸御巡啓の記念事業としてやっと完成した。

 戦中の憲兵隊による土田杏村著作摘発、富山図書館の図書の疎開などと共に語られるのが、米軍将校による図書検閲のこと。将校には日本人の通訳がついて来た。

その通訳人は頓狂な声で何ぞ咎めるかのように、書架の最上段殆ど天井にも届くところに並べてある一群の書物を指して、あれは追放に該当する書物だといった。

 これに対する米軍将校。

「あの書物なら私の母校にもある、追放するには及ばないよ」というた。 何たる公平であり寛大であり、そして温情溢るる言葉であろう。しかもこれが単なる言葉ではなく、そのまままことに味わいの深い即座の裁断である。

 その書物、すなはち参謀本部編『日露戦役史』二十数巻に対する態度の落差に愕然とする。

 そのほかにも著者の愛書ぶりが随所に描かれる。次の箇所もよい。

若し仮りにこの世界から一切の書物を悉く消却してしまったら、ああいかに人類の社会は、殺風景であろうよ。殺風景というだけならまだ我慢も出来ようけれど、恐らくはそのあまりの寂寞にとうてい堪えきれないであろう。いやその寂寞にも堪え得るとしても、恐らくは必然的にもたらし来るであろう人間社会の暗黒と野蛮には、それこそ忍び得るところではあるまい。ただ単にこれを想像してみただけでも、わたくしは一種の戦慄をおぼえる。

 

蘇峰宗の洗礼を受けた広瀬喜太郎

『暁堂感銘録』は広瀬喜太郎の回顧録・随筆集。昭和43年11月、限定700部発行。巻末の人名索引も含め全384ページで、手に持つとずしりと重い。

 広瀬は富山・高岡の出身。教師の書いたものは堅苦しいものが多いが、この書は人間味があふれて読者を飽きさせない。特に広瀬の異常なまでの本好き、読書好きが目を引く。

 話に上るのは徳富蘇峰、実業之日本の増田義一新渡戸稲造ら。特に蘇峰については熱狂的に崇拝し、蘇峰を中心に生きたやうな感を受ける。初めて学校で蘇峰の演説を聞いたときのことを、情熱をもって描く。

 

ああこの人があの文章の作者である。わがあこがれたるあの文章の主人公は、正にこの人である。况んやその演説はいよいよ情熱を孕んで、異常の興奮を喚んだばかりか、非常の感動を喚起した。わたくしはただ恍惚として何ということなく、いつということなく、いつの間にやらいわゆる蘇峰宗の洗礼でも受けたような心地であった。

 明治43年の上京時には毎週民友社に足を運んだ。

日吉町の民友社小売部に行き、先生の著書(主として国民叢書、みんな取揃えただけでない、静思余録・天然と人・文学漫筆など、同じ書物をいく冊買うたやら)を購うた。何故にこんなに通うたか、かく通う中にせめて一度でもいい、先生のお顔はとにかく、お姿を(ちらりとでもいい)見ることも出来まいものか。 

 

 大正七年わたくし二六才の時、近世日本国民史の国民新聞紙上に連載せらるるや、わたくしは先づ以ってその文章に魅了された。(略)新聞で読み、切抜帖で読み、書物で読む。その書物も上製で読み、並製で読み、普及版で読むという始末。(略)先生の一書わが架上に加わる毎に、胸中一楽生ずる思いであった。

 

同じ内容のものを新聞で読んで、本でも読む。本も違う製本のものが出たら出るたびに求める。買ふだけでなく全部そのたびに読む。

 父母との思ひ出も本にまつはるもの。

 

父は書物とか雑誌に対しては終生小言などいわなかったが、唯一度だけこんなことがあった。「冒険世界」を読んでいた時のこと、この巻頭にはそのころ押川春浪怪奇小説「怪人鉄塔」があった。(略)少年の熱血をたぎらしたものである。それがいよいよ完結して書物になった時、わたくしはそれを求めようと父に頼んだかせがんだかしたが、父はこの時だけはおいそれと応じてはくれなかった。そしていうことは、すでに雑誌で全部読んでしまっている、ああいう小説を更らに書物で読み返へさなくてもいいと。前にも後にもこんなことはこの一度だけであったが、そういうところまことに一理ありといわねばならぬ。

 

 

 この時は結局母からお金をもらって本を買った。教科書代を川上眉山の全集に使ってしまって教科書は筆写するなど、親不孝を重ねてゐる。異常な心理なのだらうけれど幸せでもあっただらう。高岡図書館のことなどもある。続く。

正真正義「アメリカは日本が作った」

 正真正義『綜合帰一の新日本の創造』は国民思想指導原理研究会発行。手元のものは昭和13年1月の3版。

 12年8月の再版の辞が載り、6月の初版発行時のことを回顧してゐる。

 本書は理論上からも実際上からも相当の研究を重ねたものであるから、研究不足や認識不足を笑はれるやうな心配はないが、何分にも思想問題の最も六ケ敷い今日の日本に問ふのであるから出版届を出してから三日間は相当心配した。(略)

 出版法に基いて出版届を出して三日間待つた。内務当局から何の通知もないから、もう安心だといふので頒布に取り掛つた。 

 検閲に引っかかるのではないかと三日間心配してゐた、とある。許可された場合は何の通知もないとしてゐる。

 その著者の主張は、アメリカは日本が作ったといふことにある。それは次のやうな理由による。日蒙戦役(元寇のこと)で、日本は蒙古を撃退した。蒙古はヨーロッパにまで版図を広げてゐたので、日本のことも広まり、黄金の国ジパングが噂となった。その後航海に出たコロンブスアメリカ発見、アメリカ大陸の東から西への発展、そしてペリーの日本来航と、つながってゆく。

 いはば日本のまいた種がめぐりめぐって、日本で実ったのだと整理する。

日本人も気付かず、亜米利加人も気付かぬ中に日本は亜米利加を作り、亜米利加は亦日本を作つて、東西両文明も新旧両大陸文明も一連の相関性を以つて発達して来て居ることは実に不思議な位である。 

 このやうに、世界を綜合帰一して躍進日本を創造すべきだといふ。蒙古に対する攘夷を評価する一方、アメリカは日本の恩人だとして開国を肯定的に見てゐる。アメリカに対しての攘夷には触れず、単なる国粋主義でない。「アメリカは日本が作った」とまでいへるかどうかは別として、独自の発想がうかがへる。

 余禄では、日本による倭寇を大陸政策として積極的に評価。ただし倭寇といふのは不当な名称で、八幡船事件などと呼ぶべきだと注意してゐる。

 

f:id:josaiya:20190428221354j:plain

f:id:josaiya:20190428221416j:plain

 

精神研究会地方委員だった補永茂助

 

『精神療法案内書』は古屋鐵石の設立した精神研究会の冊子。大正9年2月、20ページ。表紙には明治天皇御製を8首掲げる。人の心の大切さを説いたもので、天皇の権威を借りて、会が怪しくないものであることをアピールしてゐる。右に「生活安定の道此書に在り」左に「精神向上の道此書に在り」とある。

 生活の安定とは、「相当の益収あり」「精神療法家として高給にて招聘せらるゝ便宜あり」と説明するやうに、通学や通信授業で精神療法を学んで資格を取れば収入があるからだといふ。

 

精神療院長となり人を救ひ世を益さば、求めずして其人は富み栄え、物価の騰貴も苦にならず、生活は安定され精神は向上せらる、 

 会の健全さを強調するために、国民道徳の大切さも訴へる。精神研究会も、国民道徳会の中にあることになってゐる。

 

国民道徳の観念が主とならずして之を教授し、冶療するもの若しあらば、其教授治療は百害ありて寸効なし、 

 裏表紙の左右には「本会報告の実験に反する説は多くは詐欺師の偽言也」「本会主張の学説を無視する説は多くは山師の虚言也」とある。中の見開きの左右にもすべて同じ文言があって、かへって胡散臭い。 

 教へる精神療法は24種で、心霊術療法、気合術療法から稼働無想療法、慰藉歓楽療法まで多種多様。

 本会卒業地方委員として大きく11人を挙げ、富岡定俊海軍中将男爵に続いて補永茂助文学士もゐる。会員数万名のうち、地方委員は2060余名におよぶ。

 

f:id:josaiya:20190420182930j:plain

f:id:josaiya:20190420191400j:plain

 

 

明治神宮のデータベース、行の会に頭山翁など、藤沢親雄は菊の会を斡旋のみ。三島由紀夫の項はギシかロウシかで言ったらロウシの感。