望月紫峰「水戸は、志、天下にある人々のエルサレムでありました」

 

『新時代の式辞演説』(中山明編著、帝国書籍協会、昭和6年)の函と本体には、馬のやうな虎のやうな、王冠を被った奇怪な動物が描かれてゐる。長い舌が本の内容を表してゐるのかもしれない。

 新年の宴会や開店披露、忘年会、入学、卒業、弔辞など、様々なあいさつの文例と、実際の文言が多数掲載されてゐる。三浦梧楼による西野文太郎二十五回忌でのあいさつもある。実用性があるかどうかわからないが、証言として読める。

 「女学校卒業式校長の式辞」は下田歌子。たとへ知識があっても「売国奴となつては言語道断」と警告。その後、現代の学生は十中八九神経衰弱になってゐるといふ説を紹介し、学生の身の上を案じてゐる。

諸子は今後如何なる過失に陥つた場合でも、決して無謀な振舞をしてはなりません。死んではなりませんぞ。若しも死なねばならなぬ程の苦しい事があつたならば、深夜門を叩いてその苦衷を訴へ相談に来られよ。私は出来得る限り力を尽して御相談に与りませう。 

望月紫峰は「頭山翁歓迎会に於ける歓迎辞」。頭山翁の四十数年ぶり二度目の水戸訪問時の言葉を載せてゐる。

 

 水戸は、志、天下にある人々のエルサレムでありました。故に、松陰も来り、西郷も来り、雲浜も来り、当年の志士仁人は皆な来つて、尊王愛国の発生地に向かつて礼拝を致しました。

 

 しかし現代の水戸は堕落し、腐敗し、正義の観念に乏しい。そこに頭山翁がやってきた。頭山翁は黙ってゐても精神的感化を与へる。

 脈々たる英気に至つては、蔵すべからず裹むべからず、スパークの如く閃出し、吾々の琴線にふれて響を発する。

 電撃のやうなスパークが青年を刺激し感動させるだらうと期待を寄せてゐる。

望月は頭山翁をドイツの赤髯王、バルバロッサに例へる。これは神聖ローマ皇帝、フリードリッヒのこと。ドイツに危機が訪れると眠りから覚め、山を下りてくるといふ。壮大な表現だ。あいさつの参考にしてもよい。

 皇帝が十字軍を送ったことからも、エルサレムと関連させてゐるのかもしれない。回教徒を支援してゐた頭山翁はどういふ感想をもっただらうか。

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泰爆公園設立を提唱した佐々木照山

 暖かいから桜が咲いた。

『日本及日本人』昭和7年3月15日号(第245号)は三勇士留魂号。爆弾三勇士に対する感想を68人から集め、三勇士を永久に祀る方法などを聞いてゐる。

 葉書回答は短い場合が多いが、この特集は長文のものも多い。記念の郵便切手発行(柳原義光)、「永久不変色写真」を全国氏神様のご神体にする(竹内重利海軍中将)、火薬、毒瓦斯其他軍事上有意義なる生きた記念館の建設(安藤徳器)、など様々な顕彰方法が挙げられる。

 なかでも独創的なのは佐々木照山。

東京湾中の旧砲台に先づ水上公園を設け、其公園の真中に三士挺身の銅像を建て、此公園を泰爆公園と名づけ、毎年二月二十一日の夜には、各自三本宛の竹の炬火を携へ、其銅像をめぐりて三士爆死の時間一斉に火を点じ、轟然たる音響と同時に会衆万歳の声を発して、当時を偲ぶよすがとすべし。 

  三士は江下、作江、北川と、三人とも奇しくも水に関係する名字。そこでお台場に水上公園を作って、その中に銅像を建てる。それを巡って火をつけて万歳を叫ぶといふ。堅苦しい儀式よりもいいのだといふ。

 公園の名前の泰爆といふのも、照山の発想による。泰といふ字は三+人+水からなる。これは三士の名字が水に縁があることによる。爆の字は爆弾三勇士といふこともあるだらうが、これも意味がある。廿一日人(二十一日人)といって、ヘンの火、ツクリの下の水の部分を除いた部分は日+十+十、それに横長の一。10+10+1+日で、21日。三士が亡くなったのは22日未明だがこの特集では21日夜の出来事としてゐる。

 銅像を建てるべしといふ意見も多いが、反対の意見もある。鈴木好太郎は憂慮する。

 

見よ上野公園や靖国神社の此等を、又須田町広場の者を、中には其不体裁に感ずる有り、烏雀の糞の為めに、あたら面上を汚されたり、心なき人士の為めには邪魔者扱ひを受けたりして、反つて勇士の面目を傷つくるなきやを思ふ。

 

 浅野正恭海軍中将も銅像の建造には否定的で、梅林の造成を唱へる。

梅林とせるは、一は勇士爆死の季節を示し、且つは其の芳香を偲ばしむるに相応せるのと、他は年を経るに従つて益々趣を添ふるものとなるからである。 

 

 

・さくら公式ガイド、「一命を捧げられた々の霊を慰め」の脱字。

小室直樹「それならお前のところの総長を真先に殺せ」

 戸松慶議の団体はいくつかあり、1つは「国乃礎」。『神道の手引書』を暫定的に「教典」として、日本全国の市町村、神社に各一人の理解者を発見し、神道研究会をつくる。「日本協会」は頭脳集団で組織し、政府や政党を動かす実力組織だといふ。もう一つが「中央管理調整機構」。

検閲局―世紀末野蛮化の原因と根となる害悪害毒不道徳破倫性の存在を剪除根絶する国家改造新聞を発刊

 などを謳ふ。
 『次代』は国乃礎本部と日本協会本部を発行所とする月刊誌。平成5年6月号には小室直樹の講演が載ってゐる。日の丸と日本協会の旗を前に立つ写真もある。演題は「世界野蛮化に於ける日本の進路と方針」。野蛮化といふのが先の管理局の活動と重なってゐる。
 世界情勢を論じた講演ののちに、参加者との質疑応答もあった。小室の関心と過激さが率直に表れてゐる。知人が明治大学の学生で、三島由紀夫を尊敬してゐるといふ。

自分の良いところは人を殺す度胸があることだが、誰を殺したらいいかわからないので悩んでいるというのです。

 これに対する小室の答へ。

それならお前のところの総長を真先に殺せ、と言ったんです。どこがいけないんです、と訊くから「明治大学という名前が悪い。僭越至極じゃないか」と答えました。(略)明治大学がどんな立派な大学か知らんが、一大学ではないか、名に年号を取るとは何事か、と言ってやりました。

 寺でも年号の名前を付けるのは本来不敬である、昔はさういふことをしっかり教へる学問をしてゐたのに、と憤慨する。悩みもその答へも尋常でない。
 ちなみに頭山翁のことを、白虹貫日の故事を知ってゐて朝日新聞を糾弾した、学問があったと褒めてゐる。記事では白球天を貫く、と誤記。
 皇国史観にもさまざまあったといふ平泉門下らしい指摘もある。学校の校庭に軍神の銅像はないが二宮尊徳の像はある、これはなぜか、と論じるところなども、身近な話題から展開して面白い。


暉峻義等「これは明瞭な事実であります」

 1月は正月休みのあとに必ず3連休がある。優しい。
 講演の友社の『講演の友』昭和14年6月15日号は第155号。5月2日に開催された銃後健康報国大講演の様子を収める。主催が厚生省・東京市東京府・警視庁のちゃんとした大会。
 「長期建設下の体力向上」について講演したのは日本労働科学研究所暉峻義等所長。非常時にこそ休養が大切だと語り掛ける。

長い間の科学的研究の結果によりますと、長過ぎる労働時間は生産力を拡充する方途ではありません。これは明瞭な事実であります。明瞭な産業界の原理であります。

国家は長い勤労時間によつて使ひ古された不健康な、意気銷沈した人間によつては維持されないのであります。盛んなる国家、興隆する国家は、健康にして意気旺盛なる国民を要求してゐるのです。かかる国民によつてのみ国家の進運は開拓されて行くのだといふことを、私は信じて疑ひません。(拍手)

兵を休め兵力を用ひるといふことは、兵法の最も大切なことであります。これが即ち明日の戦争に必勝を期し得るところの所以であります。

 国民はただ勤労するだけでは駄目で、自由時間には皇国の臣民として人格を陶冶しなくてはならない。体力の向上にも努めねばならない。国家のために最大の力を発揮するには、十分な休養が必要だと説く。
 水歩生「一ツ目小僧見参記」は東京帝大五月祭の見学記。この年に医学部標本室が竣工したので、有名人の脳や玉ノ井バラバラ事件の骨、襲撃された浜口首相の大腸の一部など、珍奇な標本が展示された。一ツ目小僧といふのも特殊な人間の標本。ここでは高橋お伝の一部が公開されたといふのはデマといふことになってゐる。
 目次にはないが「和楽路会の活躍」といふ小さい記事も見逃せない。わらぢ、と読む。日本精神の顕揚を目的として昭和10年に設立。菅笠と草鞋で徒歩旅行をなし、講演会を開催する。頭山翁が顧問総長、末永節が顧問。
 事業として「宮城前通行の際の礼拝提唱」「毎朝洗面後宮城遥拝提唱」「天長節の奉祝徹底提唱」が挙げられてゐる。草鞋での徒歩旅行といひ、身体と精神が結びついた運動が注目される。写真を見ると、なるほど菅笠の集団で、幟のやうなものを掲げて歩いてゐる。

楠正人「楠族を抹殺せんとする陰謀家が少くありません」

 『菊水』は湊川神社の社報。1・3・5・7・9・11と年6回、奇数月の発行。内容はご祭神の楠木正成のこと、楠木家の系図楠公を慕った人物、楠公を扱った書物、社頭の出来事、人事異動など多岐にわたる。1部12銭。
 昭和十年代のものは5段組みで12〜21頁と分量も多く読み応へがある。昭和14年7月1日発行号は第7巻第4号。16頁建てで編輯兼発行人は中野清。これに同じ大きさの『楠木同族会報』2頁が付録として付く。
 本誌『菊水』には千早丸署名の「楠族の立場より」が載ってゐる。同年11月号の索引によると筆者の千早丸は福岡の楠正人。同族会員なのでもちろん正成の子孫だらう。この記事は全国に散在し混乱する各種の系図を取り上げ、より正確な系図を目指さうといふもの。連載となり、最終回には筆者が作った系図も掲げる。
 初回は総論的に、正成以降の子孫の流れを解説。子孫は大きく硬派と軟派の2つに分けられるといふ。硬派は足利以来の武家政治に反抗し地方に逃れ、姓も変へて暮らした。軟派は武門に迎合し家の復興を図った。軟派・妥協派の代表を楠正虎とし、「自己中心主義」「過失を敢てした」と非難する。

楠族を圧迫した家々の末流には今日なほ楠族を抹殺せんとする陰謀家が少くありません

楠族に告げ度いのは「吾等の荊棘の道はなほ終つては居ない」と云ふことと「吾等は荊棘を刈る決意を要する」と云ふことであります。

 と、危険を冒してでも正しい楠木の系譜を明らかにするのだと意気込んでゐる。
 1年後の15年7月号で連載を終へてゐる。その号の15頁、社頭彙報左上に4巻2号とあるのは8巻4号の誤記。参拝者として四王天延孝、一条実孝、井上清純、頭山翁ら。頭山翁はその場で揮毫したのか、「純忠至誠」の書が掲げられてゐる。
 同族会では、正成が信仰してゐた多聞天を祀る多聞寺の再建について提議した会員があったが、人事や会計に問題があり除名されてゐる。
 


 

女郎屋の主人になった中江三吉

 続き。『向上』主筆の宮田脩は同号に「青楼に近江聖人の後裔を訪ふ」も載せてゐる。蓮沼門三から、近江聖人こと中江藤樹の子孫が女郎屋の主人になったといふ話を聞いた宮田。早速横浜に、その中江三吉を訪ねた。
 電車を下りてからの風景と心の描写が秀逸。

先に立つのは短い袴に処禿のした紋付の木綿羽織を着た修養団員の黒田君、後に続くのは高帽に太い杖を持つた教師の予、而して処は本能を満足させる為めに設けられた場所、一寸妙な感が起つた。而も夫が聖人の遺物を探りに往く巡礼と云ふのだから一層奇妙じやないか。静な町を歩いて居る中に、女郎屋と云ふものはこんなものかと云ふ感も起り、往昔基督教の信徒が異教徒のエルサレムに、主の霊地を訪れた時の感なども想像して見た。

 黒田君といふのは横浜めざまし新聞社主、黒田平久の甥。黒田君を案内係に、廃娼運動もしてゐる宮田主筆が女郎屋を訪ねる。女郎屋には近江聖人の子孫がゐるらしい。をかしいとわかってゐる宮田の筆ぶりがをかしい。
 女郎屋では中江家の系図や古文書を見せてもらへた。そこで判明したのは、中江三吉は藤樹ではなく、その弟の子孫。それでも中江一族には変はりない。ところが明治初年に聖人の遺蹟を勝手に修理されたので提訴したところ、その費用がかさんで家産が傾いた。三吉は13歳で故郷を飛び出した。それから女郎屋になるまでも波瀾万丈だ。

十六の時同姓で且つ先考とは値遇のあつて[た]故中江兆民篤介氏を便つて上京したが、東海道の金谷に来た時既に旅費を使ひ尽し、漸く村役場で貰つた少計の金を路銀に辛く横浜まで着いたのであつた。けれど知人もない土地ではなす便もなくて終に侠客の群に入り、続いて新開の土地に此職業を選んだのださうだ。

 三吉は病気中でも面会に応じてくれて、宮田は好紳士の印象を持ち、考へるところがあった。

精神上の事実に於ては父子必しも相通のものでないことも争へぬ事実と思ふ。況や世を距てゝ数代其血が混入した後は、どうなるものだかわかるものではない。して見ると家系の如きは其人物を評価するに、何等の価値を有するものではなからう。畢竟エライ奴は其一人がエライからエライので、いくら名門の出でも其者に祖先と拮抗する能力がなければ、たゞの馬鹿に過がない。

宮田脩「野依秀市は沙漠のオアシス」

 修養団の機関誌、『向上』。明治45年5月号の第5巻第5号に、横山三義「野依君は果して吾等の学ぶべき人物か」が載ってゐる。目次では「野依氏は果して吾人の学ぶべき人物か」。
 蓮沼門三から「野依は奇狂な点もあるが珍らしい人物である交際して趣味のある人である」と聞き、会ってみた。野依は初対面の女性記者に対しても遠慮がない。

「君はいくつだ、ソーか二十二か少し古狸だねい、…どうだ一体君が僕の妻になる気はないか、僕も年頃の男、しかも元気旺盛と来て居るから、欲も随分強い、君もその若さに新聞記者なぞして居るのを見れば普通人ではあるまい」

 古狸と言ってけなしたすぐあとに若いと言って、年頃で欲もあると求婚し、挙句に女性で新聞記者などしてゐるのは普通ではないとからかふ。
 横山は、このやうに天真爛漫なうへに、しっかり仕事もこなす野依の猛進奮闘努力を見倣へばなんでもできるだらうと読者に奮起を促す。
 同号には野依の新著、『無学の声』の見開き広告もある。この頁を切り取って送れば、定価1円20銭、郵税8銭のところを合計1円に割引するといふ。28銭お得。『向上』が1部10銭なので、だいぶ勉強してゐるのではないか。
 広告といってもほとんどが『向上』の宮田脩主筆の文章でびっしり埋められてゐる。

時に読来つて嫌な気のする部分がないではない。腹の立つ文字にぶつつからなくはない。随つて其所見を異にする点も鮮くはない。然し朝に源氏の心持を窺ひ夕に平氏の顔付を見るオベツカ者流と撰を異にする著者の意気には、中々愛すべき所が多い。

まるで、沙漠にオーシスを見るやうなもので、一理の異現象たる観がある是が戦国の時代なら怪むに足らぬが、制度は箱づめのやうに極まり、秩序は梯子段のやうに定まり、殆ど一寸の裕取を許さない間に、著者の如き猛烈なアヂテーターを見るのは、一つの奇蹟としてよからう。

 型にはまった社会のなかで、野依氏はまるで砂漠のオアシスのやうに貴重な存在だと褒める。そのほか「敵としても愛すべき敵だ」「近頃快心の好著述」ともある。
 良いところは褒め、悪いところは指摘する。文章量の多さも含め、これはもう広告を超えて書評といってよい。
 主筆の宮田は記事でもなかなか読ませるものを物してゐる。少し続く。