広瀬喜太郎「わたくしは一種の戦慄をおぼえる」

 続き。明治39年、広瀬喜太郎が中学二年生だったときのこと。当時富山・高岡に図書館がなかったことを残念に思ひ、先生にその必要性を訴へた。念願かなって図書館が出来ることになり、開館式にも招かれた。

わたくしは異常の感激を覚えた。ああ図書館―夢にまで描いた図書館である。その図書館が実現した以上、その開館を如何に待ちこがれたであろうよ。

しかしこの感激もすぐに失望に変はる。設備も蔵書もあまりに貧弱だったから。

わたくしは図書館というものにつくづく失望したばかりでない、もうほとほと愛想を尽っきらかした。わたくしはこの時から図書館などにたよるべきではない、買おうにも買われないような書籍ならいざ知らず、本当に自分の読みたい書物、読まねばならぬ書物なら、何を節約してもそれを購うことに決意した。 

 期待と失望と決意が痛ましい。市立高岡図書館は明治42年の東宮殿下(大正天皇)北陸御巡啓の記念事業としてやっと完成した。

 戦中の憲兵隊による土田杏村著作摘発、富山図書館の図書の疎開などと共に語られるのが、米軍将校による図書検閲のこと。将校には日本人の通訳がついて来た。

その通訳人は頓狂な声で何ぞ咎めるかのように、書架の最上段殆ど天井にも届くところに並べてある一群の書物を指して、あれは追放に該当する書物だといった。

 これに対する米軍将校。

「あの書物なら私の母校にもある、追放するには及ばないよ」というた。 何たる公平であり寛大であり、そして温情溢るる言葉であろう。しかもこれが単なる言葉ではなく、そのまままことに味わいの深い即座の裁断である。

 その書物、すなはち参謀本部編『日露戦役史』二十数巻に対する態度の落差に愕然とする。

 そのほかにも著者の愛書ぶりが随所に描かれる。次の箇所もよい。

若し仮りにこの世界から一切の書物を悉く消却してしまったら、ああいかに人類の社会は、殺風景であろうよ。殺風景というだけならまだ我慢も出来ようけれど、恐らくはそのあまりの寂寞にとうてい堪えきれないであろう。いやその寂寞にも堪え得るとしても、恐らくは必然的にもたらし来るであろう人間社会の暗黒と野蛮には、それこそ忍び得るところではあるまい。ただ単にこれを想像してみただけでも、わたくしは一種の戦慄をおぼえる。