宮林得三郎「零点以上に評価される気遣ひのない私」

 宮林得三郎『戦時下の世相に対して私は斯く叫びたい』は昭和13年11月、京城での刊行の小冊子。非売品。表紙に「自由主義個人主義思想を排撃して国家全体主義思想高潮運動を提唱す」ともあるので、著者の主張が分かる。
 手元のものには「この小冊を江湖に贈る私の心」といふ紙片が入ってゐる。「ヅブ素人の心持ち」「なけなしのサラリを割いたこの上梓」ではあるが、「ひた向く愛国への発願」で行動したのだといふ。
 前書だけでも読んでほしいとあるのでその前がきを読むと、ここでも「零点以上に評価される気遣ひのない私」と自分を卑下する。その宮林が主張するのは自由主義個人主義の排撃。

 たゞ正心正銘、自由主義陣的個人主義殲滅陣への斬り込みである。この「みち」こそ総ゆる宗教、総ゆる法律、総ゆる道徳をも超越した絶対境「すめらぎの道」である

 謙遜と攻撃が同居し、不思議な感じがする。商界地獄(仮称)に仲間入りした、商売人の醜行があばかれた、ともあり、朝鮮でなにか商売上で一時苦労し、そこから一転して全体主義に目覚めたやうだ。
 ヒットラームッソリーニにも共感し「この運動をより強力ならしめたい」「更に有効適切な企画の連続的発表」と謳ふ。長期戦の覚悟も示してゐる。

清水八十治「こんな旨い物ばかり食べていたら、人間は堕落してしまうぞ」

 『八十路 人々の縁に支えられて』は清水八十治自分史編纂委員会編、平成14年4月刊。清水八十治は自分の名前から、八十二歳まで生きることを目標にしてきた。念願かなって改めて生涯を振り返りまとめたのがこの書。
 世間的には、吉田茂の秘書として長野から衆議院議員選挙に出馬したり、電通の出身者らと広告会社、明治通信社を興したりといった活躍で名を残してゐる。
 ところがその前の戦前や終戦直後の経歴にも興味深いことがある。上京して早稲田大学専門学校商科に入学した清水。田中穂積総長から紹介されたアルバイトが早稲田大学付属図書館での貸し出し係り。仕事は気に入り、生活の基盤もでき、先生と懇意になり友人もできた。
 ただ不満だったのが、仕事中の服装問題。

“(略)図書館で本を貸し出す係りの俺としては、神田に行って、背広だ、ワイシャツだ、ネクタイだといって買わなければならない訳で、その分だけ割り損だよなあ…”などと、貧乏学生らしい浅ましいことを、腹の中で密かに考えていたことも事実であった。

 早大図書館では貸し出し係りでもきちんとした服装でなければならず、生活は苦しかったといふ。
 そのためほかの学生のやうに喫茶店や映画館などに入ることもできなかった。そんな中、友人のボース君といふのが出てくる。これは中村屋のボースの息子、防須正秀のことだらう。ボース君を訪ねたときに、奮発して中村屋でカレーを食べることにした。

“えらい高い買い物だなあ…”と感じた。それでも、これもひとつの経験だから、と食べてみたのだが、何とこんなに旨い物は初めて食べた。“こんな旨い物ばかり食べていたら、人間は堕落してしまうぞ…”と思う位旨く、あの時の感激は今もって忘れられないものである。

 「恋と革命の味」のキャッチフレーズもいいけど、人間を堕落させる味といふのもよささう。
 戦後は大麻唯男らとのつながりで、新会社の新世紀社から新雑誌『読物クラブ』を発行。「ちょっとしたベストセラー」になる。続いて岡村二一らから声がかかり、新雑誌『ロマンス』に関はる。清水は関連のロマンス商事の社長となり、物品を販売した。その中に「ナナホスミン」といふ滋養強壮剤があり、原節子が愛用した。熊谷久虎夫人が代はりに買ひにきたのだといふ。『ロマンス』のポスター前で撮った、社員の写真も載ってゐる。

水原兵衛「余りに悲しむべき世の様にあらずや」

 『日本及日本人』大正15年11月1日号、第111号には、井上哲次郎の不敬著書問題を糾弾する文章が多数収められてゐる。井上の著書『我が国体と国民道徳』に国体の尊厳を冒瀆する箇所があるとして、頭山翁らが運動したもの。
 無記名論文「滔天の悖逆は其の責め有司大臣にあり」は、出版当時の内務大臣、若槻礼次郎を糾弾する。

内務当局が著書の改訂を命ぜず。一字一句、一行半句をも改めしむるなくして、原著そのまゝの印行発売を許容したるは、明らかに内務大臣の一大失態にあらずや。
 更らに所謂札付きの思想家、主義者の著書は厳正に之れを検閲するも、学者の著書は大目に見るといふが如きも、余りに不誠意の弁疏にあらずや。

 厳しい検閲の対象が、普段から共産主義無政府主義を唱へる者たちだけになってゐる現状を批判し、学者といへども十分に検閲するやう訴へる。
 水原兵衛「終に一人の義士なきか―井上博士不敬著書の読者中に―」は、著書の読者に批判の矢を向ける。問題の本は大正14年9月の出版以来、15年5月の6版まで版を重ねてゐる。水原は、一つの版で少なくとも1000部発行されたと計算。5000部以上は読者の手に渡ったといふ。

 一人も其の不敬を非難するものなく、其の不穏の文句を指摘するものなく、其の国体破壊の端を啓かんとするを憂ふるもの無かりしか。之が国士の頭山翁等によりて指弾せらるゝまでは、何人も之を咎めたるもの有るを聞かずさりとは余りに悲しむべき世の様にあらずや。

 水原の考へでは、発行されたものはすべて読者の手に届き、誤読も積ん読もない。内容に間違ひがあれば誰でも気づくはづ。それなのに誰も指摘しなかった、なんと悲しいことだらう、といふ。ここでは増刷も喜ばしいことではない。
 鷺城学人「似而非学者井上博士」はほとんど罵倒の口ぶりで井上を批判する。彼には独創がなく衒学の標本で、古事記大東文化学院の教育科目から外さうとした。問題の本は教員試験の受験者の必読書扱ひにし、「莫大な金儲けをしたに違ひない」。
 詩文欄も不敬著書問題を扱ってゐる。「日何看」と題した詩には、「警保局中刀筆吏、拭眸開眼日何看」とあって、手元のものには三重丸や傍線などが書き込まれてゐる。刀筆吏といふのは刀とか筆とか何となく格好いい感じがするが、調べてみると下級の役人とか、地位が低い小役人などとされてゐる。小刀で文字を削る人。「削るのが仕事なのに、どこに目をつけてゐるのか」といったところか。この詩を読んだ担当者はどんな気持ちで書き込んだだらうか。
 表紙には印あり。久慈は久慈学、課長の川崎はのちの衆議院議員、川崎末五郎と思はれる。


本が好き過ぎ鍛冶忠一

 『とりもの随筆 お天気博士言行録』は日本出版販売の鍛冶忠一の著、学風書院、昭和30年8月。高橋ゆり装丁。
 表紙、奥付などはサンズイの治、本人の「おひとよしの言葉」(序にかえて)はニスイの冶。
 本にまつはる随筆集。著者は本の取次業なので本が売れてほしいといふ気持ちは分かるが、度を越してゐる。
「夢物語」「続・夢物語」「続々・夢物語」は10年後の出版界の夢の話。妻も夫も子供も政治家もみな日記をつける「日記時代」がやってくる。

あらゆる階層の人、あらゆる年齢層の人が書物や雑誌を持ちあるくことが国家的時代モードとなつた。(略)
助産婦が赤ン坊をとりあげて、鞄から計器をとり出し赤ン坊の体重を計ると同時に男女の識別に応じて、男児の場合は「のりもの」や「動物のエホン」をお祝として贈る。女児の場合はきれいな花や、人形のエホンをお祝する。何と微笑ましい人間の出発ではないか。(略)
 その他、吉凶のすべて、入学、卒業、就職、お見舞、結婚、銅婚、銀婚、金婚の式、賀の祝、喜の祝等々、あらゆる幸不幸、お祝にはまず相手方の書物をえらび贈りあう。

 人は生まれた瞬間から本を贈られ、就職や結婚、喜寿の祝いなどに至るまで、人生を本と共に歩む。
 花嫁道具の第一は書物で、何千万円分の書物を持参したといふことが話題になる。国民すべての教養が高まって、犯罪が皆無になる。ただ書物や雑誌のスリなどは行はれる。
 電車に乗るときも本を貸してくれるサービスがある。東京で乗るときに本を借りて切符に印を押し、大阪で降りるときに返す。雑誌は車内にある。

駅では切符を切るときにまずたずねる。あなたはどの部門の書物がお好みですか。(略)車内にズラリとサンデー毎日週刊朝日週刊読売、週刊サンケイ、などと一汽車に五十冊もおいてあるので自由によむことができる。

「書を蔵して」では、蔵書のある旅館、小規模図書館の導入を想像する。

曰く哲学の間、文学の間、小説の間、文庫の間、美術の間、そうして部門別の書物など揃えてあつたら、いかにも文化の香り高いではないだろうか。

全国津々浦々に、村ある所、町ある所、ささやかにてもよろしい、少年少女児童専門の図書館を心ある篤志家のお骨折と村費か町費の援助のもとに是非実施の運動を開始したい。

 ・公式ガイド、店主(店主以外も含む)の血液型。性格診断を信じてる、疑問に思はない人向け。星座も載せればいいのに。産額は算額三菱東京UFJ銀行

野間清治「『思想善導』たゞ四字であります」

 『野間会設立につき 全日本の人々に告ぐ』は昭和7年5月26日に帝国ホテルで行われた、野間会発会式の様子などを記録した冊子。野間会は野間清治の信念を世に広め、思想を善導し、社会を浄化し、皇国の隆昌を図り、新興日本を建設するのだといふ。
 野間の信念は、その著書『処世の道』から抜粋したものを掲げてゐる。

 神既に我の裡におはします。これに斎き奉る我は、我の邪なる心を去り、我の曇り汚れたる行を雪いで、(略)その極致に至つては、人にして神たることを得るといふ愉快なる希望までも従つて出づるであらう。

 人の心の中には神がゐる。努力すれば神になれる。そこまで至らなくとも、神に守られてゐるといふ安心を得ることができる。このことを野間会会長の井上源之丞は野間道と表現してゐる。
 野間会の発会式には鳩山一郎徳富蘇峰ら300余名が出席。蘇峰は野間の事業を私設文部省だと褒める。上田万年は、野間と社員の関係は西郷隆盛と子弟との関係のやうだと持ち上げる。菊池寛は、子供にも野間の名前はよく知られてゐるといふ。小久保喜七は野間の皇室中心主義を称揚する。
 野間の謝辞は全文が載ってゐる。

 日本の現在は実に容易ならん時に際会してゐるのであります。子にして親に反く者、弟にして兄を犯す者。夫婦相和せず、朋友相信ぜず、到る処浅ましき状態を現出して居るのであります。

 引用部分は教育勅語を引っ繰り返した、逆教育勅語そのもの。戦後の国会決議を待たずとも、既に昭和7年の時点で逆教育勅語状態だった。実践してゐる人などゐなかった。
 思想善導が急務だと強調し、これこそ急所であり要訣である、これに全力を注がねばならないといふ。野間は「日本国民全体は今何処に道徳の規準を求めたらよいのでありませうか」と嘆く。「悪思想の伝播力は疫病よりも速い」「不景気も思想に基因する」「『思想善導』たゞ四字であります」と聴衆に訴へた。
 

加藤美侖「よいものは何万年経ってもよい」

『三大聖勅謹解』の表紙には摂政殿下台覧、若槻礼次郎推薦、岡田良平推薦、高田早苗校閲、遠藤隆吉校閲とあるが、著者名がない。表紙をめくった扉にやうやく著者、加藤美侖の名が現れる。現代のムックの形式のやう。
 奧付には大正14年12月、第5版のみの表記。東洋出版社発行で、発売元は坂東恭吾の家庭実用読書会。
 三大聖勅について解説したもので、子供のためにかみ砕いて、この上ないほどわかりやすく書いてゐる。教育勅語については、

たゞ文句を暗誦するだけで、肝心の意味が分らなくては、ありがたいお思召が一般臣民に行渡らないわけで、畏れながら残念なこと

 と、捧読の形式のみ大事にされ、中身が十分に知られてゐないと嘆く。
 忠孝など古臭いではないかといふ批判にも回答を用意してゐる。例へ方もわかりやすく、加藤の特徴が出てゐる。

古いものは悉くわるく、新しいものは何でも良いといふ理窟はどこにもありません。殊に忠孝などといふ心の上のことは、古い新しいで良い悪いを決めるべきものではありません。よいものは何万年経つてもよい。(略)月は何万年も前から円い姿で輝いてゐるが、今日誰だつて古くさいの何のといふ人はありますまい。

 「一旦緩急アレバ義勇公ニ報ジ」の箇所については、よく戦争のために死ねといふ意味だとか、天皇のために命を捧げろと言ってゐるとかいはれてゐる。加藤の解説では、

軍人ばかりでは戦争は勝てません。国民全体が、心を一つにして、各自の為すべきことを一生懸命やるといふ風でなければなりません。殊に今日は昔と違つて、武力といふよりも国民の力といふことが大切になつて来ました。

 日露戦争などの一大事には、私心を捨てて国家のために働くことが大事だといふ。その時に必ずしも軍人となる必要はない、特に現代では武力以外の分野にも注力すべきだと強調する。
 この書は明治23年の教育勅語のほかにも、明治41年の戊申詔書と、大正12年の国民精神作興詔書についても解説する。加藤はそれぞれが下された理由も述べる。日露戦争後、人間の気風は「籠の中から放された鳥のやうに」いい気になって飛び回り落ち着きがなくなった。無駄遣ひをするやうになった。これではいけないと民心を引き締めるために、戊申詔書を発した。
 「しかるに欧洲戦争などのひゞきを受け、近頃人の心にしまりがなく、危険な考へを持つ者などが出来」、その上関東大震災も起こった。そこで国民の心を奮ひおこすためにもう一度国民精神作興詔書を出した。
 加藤はここでも形式主義を批判する。

教育勅語でも戊申詔書でも、たゞわけもわからずに読んだのでは何にもなりませぬ。読んで、意味がわかり、その上実行しなければなりません。

 逆にいへば、教育勅語が出された後でも民心が落ち着かなくなったり、やる気が起こらなくなった。教育勅語さへあれば万事うまくいくわけでもなかった。形式ばかり重視し、中身を読んで理解し実行する人などゐなかった。戦前戦後の中断よりも前から教育勅語が形骸化してゐたのではないか。




自由党院外団に入った木内豊助

続き。『わが半生 10人集』は靴業界人の半生をつづったもの。靴業界に入る前の経歴にも面白い人がゐる。
 村田金一は明治41年生まれ。「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の後援会、「松栄会」に入会。機関誌月刊『富士』の編集をしてゐた。毎号1000部印刷したといふ。昭和4年ごろはラジオドラマが盛んになり、喫茶店などでの素人による脚本朗読が流行。村田は「桃源座」「錣座」を立ち上げたりとなかなかの趣味人だ。
 木内豊助は明治32年生まれ。関東大震災のときに青年団が組織され、木内は副団長、団長が高知の坂本といふ人だった、とある。

 坂本さんの紹介で、私が政治家の院外団に入ったのは大正末期であるが、そのころ鳩山一郎さんは政友会の東京支部長で、川島正次郎、河野一郎大野伴睦といった人たちも、まだ院外団で幅をきかせていた。私は青年部員になり、やがて遊説部員として、ベテランの浜田国松から演説の仕方や、地方遊説の場合の手ほどきを受けて、「本部特派員」として出かけていったものである。

 当時の自由党の院外団にも高知の板垣退助の息のかかった人がゐたといふ。その後、台風来襲を直感し米相場で一儲け。元手を得て麻布区議選にも当選した。