昭和天皇に靴を献上した磯畑弘太郎

 『わが半生 10人集』は靴商工新聞社、昭和47年1月発行。非売品。磯畑弘太郎、大沢義雄、荻津完、木内豊助、佐藤儀三郎、菅沼操、春田余咲、藤原勉、宮崎伊助、村田金一の10人が自らの半生をつづってゐる。すべて明治生まれの靴業界の長老。もとは靴商工新聞の連載。
 あとがきは編者の藤田稔。

 単に私的な自己紹介ではなく、靴業界の史実として、さらには経営の知恵や処世の心構えを考える上でも貴重な文献であろう。人生ドラマは読み手の年齢、環境、立場、経験の度合などによって受け取り方が異なるものだが、滋味として生かすところに本来の意義がある。

 これを読めば靴業界人の歩みがわかる。
 磯畑は明治29年兵庫県生まれ。軍靴の製造に従事。終戦後、昭和天皇が古い靴をお召しになってゐると聞き、靴を献上した。

 陛下には、従来何を献上しても、感情をお顔に出されたことはないそうだが、献上の靴を非常によろこばれ、侍従を呼んで「これを見よ。皇后様にもつくって差し上げよ」と申されたという。

 巻頭にはお礼に来社した鈴木貫太郎夫妻の写真もある。
 宮崎は明治33年岡山県総社市生まれ。アメリカ屋靴店社長。軍靴の補給や修理のため、ビルマに渡った。

 ある日、その釣り場へひよっこり現れたのが、軍司令官の牟田口廉也中将である。釣り竿を肩に従卒もつれずにぶらぶらやってきた。将軍は敗戦の責任を一身に負って、謹慎中のはずだった。肩章をとってあるが、私には武人らしいその風貌と長靴から、それとわかった。

 肩章がなくても、靴でそれとわかるのが流石だ。玉音放送を聞いたときは、「天皇陛下を東南大陸に奉じて、再挙をはかれるじゃないか」と本気で考へた、と回顧してゐる。続く。


・『まんが人間離れした狂人たち』に笹川さんの一代記。戦前の精悍な顔つきが再現されてゐる。気弱さうな東條さんと対照的。コマ割りや明暗のめりはりもよく利いてゐる。ただ19世紀最後の年は1989でも1899でもなく1900ではないかと思った。




作田荘一「帝国大学は鵺的存在であった」

 作田荘一『戦敗れて道明かなり』は昭和27年11月、日新社発行。『祖国』『桃李』などの文章をまとめたもの。はしがきでは、新聞が作田のことを右翼の黒幕だと書いてゐることに触れてゐる。

私如きに踊らされて動くやうな人は一人もゐないだらう。(略)せめて真に祖国を念ふ方々に演じて貰ひたい脚本を書くことだけが、残された望ましい仕事とも思はれる。

 京都帝国大学教授だった作田。だが書名と同名の巻頭論文では、帝国といふ言葉は他国を侵略する帝国主義のものだといって否定する。

大日本帝国」の名号は世界社会に加つて「人の道」を奉ずる列強帝国と並び立つ意味に用ゐられたが、その点では「神の道」を奉じて立つ意味の「神国」「神州」に比して甚だしく品格を下だしたのである。(略』「帝国大学」に到つては実に奇怪な存在を示して来た。これも名称では日本が皇国から帝国に移らうとする空気だけは漂はしていたが、その内容は他に類例の稀なものであつた。

かつて我が国の帝国大学は、どこの帝国のために立てた大学であるのか、性格の不明な一つの鵺的存在であつた。その帝国大学の中から筧克彦博士の皇国観の如き類の稀な識見も現はれたが、これは勿論帝国大学人の多くから全く継子扱ひにされた。

 筧克彦のやうな皇国観を持った人物は帝国大学では例外的な存在で、正当に扱はれなかったといふ。
「人の道」といふのは、現在では人の道に反するとか人道主義などといってよい言葉だけれども、作田の使ひ方は違ふ。「神の道」と対極的な、神を否定する見方で、自由主義共産主義もその一つである。
 大東亜戦争は帝国と皇国とが混在して、必ずしもその性格が明らかでなかった。敗戦によって、「帝国」は敗れたが、「皇国」のためにはこれでよかった。それで書名の通り、「戦敗れて道明かなり」なのだと論じてゐる。
 「国の祝祭日はかう改めたい」では、祝祭日を10に改廃した案を示す。3月31日に新設するのは国際節。これは安政元年の日米修好通商条約の調印日を太陽暦に改めたもの。6月30日は英霊祭。大祓の日に心を清めて英霊を祭るのだといふ。

『大衆人事録』の予約営業をしたピストン堀口

 露木まさひろ『興信所 知られざる業界』(朝日新聞社、昭和56年1月、のちに文庫化)読む。表紙の迷路図は安野光雅、装丁前島敏彦。いかがはしい人ばかり出てくる。面白くてため息をついた。
 関係者へのインタビューや臨時入所もまじえて、興信所業界の実態を描く。全7章。
 「探偵の顔・依頼人の顔」では異常な依頼が描かれる。三億円事件の現金のありかを知ってゐるから一緒に掘り出してほしいといふ老婆、さまざまな妄想に取りつかれた男。

 探偵さん、あなたテレパシーを信じますか? 私にはわかる。事実こうしてCIAが私を電波で見てるんだ。その発信地を捜査したいんだ……と自称区役所職員。

 「プライバシーへの挑戦」では探偵学校が紹介される。

「教授陣は、警察大学校の元講師、中国大陸で暗躍した元特務機関員、元東京地検特捜部員、日系二世の元CIA要員、現職の某国情報局員、防衛庁公安調査庁の関係者、公認会計士、税理士、弁護士といったオッソロシイひとばかりですぞ」

 「草分けたちは七十年」の章では、明治以来の業界の歴史を振り返る。終戦後に秘密探偵社を買収し、『大衆人事禄』を発行したのが広瀬弘。

広瀬は右翼から出馬したり、日本青少年愛護協会、赤十字奉仕団、防犯協会など無数の肩書をふりまわす血の気の多い人物で、悪い意味で探偵界の著名人にのしあがってゆく。元警察官、元憲兵、元特務機関員、元新聞記者などの猛者を集めて『大衆人事禄』の予約営業に走らせたのだ。その一人に往年のチャンピオン・ボクサー、ピストン堀口もいた。

 人事録商法の繁盛ぶりが目を引く。

業界紙・誌、週刊誌、広告屋、営業マンなどを転々としてきたはぐれ烏のような男たちが、格好の意外な食いぶちを見つけたとばかり流れ込んできたのだ。現在、いっぱしに探偵風を吹かしている中年派のほとんどが、元紳士録屋である。

 「会社防衛隊」の章は入社前の学生の身元・思想調査のやり方。

公安調査庁のOBが当社の顧問にいるんです。彼らのネタですよ。公安のコンピューターチェックをかなり安く自由に頼めて、思想調査ができる調査会社は、都内に五社ほどしかありません。…」

 違法だとか人権侵害だとかいふ言葉が浮かぶが、これにも裏がある。

「悲しき結末」の章はその内情。本気で思想調査を依頼する会社も、される興信所もほとんどないといふ。

とおり一遍の調べだから「思想穏健、品行方正、性格温厚な中流家庭の学生さん」ぐらいの結果がほとんどなので、企業は採否を決定する重要資料などとは考えてもいないのである。入社させたはいいが、社内犯罪や社会的な事件を起こしたり、仕事能力ゼロだったりした場合、興信所が調べて安心できる学生だったから、とすれば人事課長は処罰されずに済む。これが調査目的の九割を占める。

 なかにはずさんな調査が裁判に発展した例もあるといふ。

 読み進めると人間や社会の影の部分の話題ばかりでまたため息が出た。


サピオに著著多数を見つける。ここに限らずたまにある。

横松宗「これらの問題はもっと究明する必要があろう」

 横松宗『一九四五年―上海』は大分の『邪馬台』70・71号の抜刷。昭和59年発行。
 横松は大正2年生まれ、八幡大学学長。魯迅福沢諭吉の研究者。戦時中は国策会社の中支那振興株式会社勤務。この冊子はその頃の上海や日本の様子を描く。産業課に属し、課長の滝野氏の夫人は島田叡沖縄県知事の妹。
 日本に留学中、横松は大東亜省で「きわめて皇道主義的な教育」を受けた。

受講した教授の多くは東大の教授等であったが、大部分は国粋主義か皇道主義者であり、憲法の講義なども、上杉慎吉の学説よりもひどいものであった。平泉澄教授の話など神がかり的なものをはじめ、難波田春夫教授の経済学など、こじつけのようなものが多く、正直納得しかねた。

 大川周明に反論して激怒させるなど、「皇道主義」に感化されなかった。それでも論文をまとめたが、「内容については、今は完全に忘れてしまっている」といふ。
 「ある意味で影山氏を崇拝していた」友人と塾を訪問。友人は「本ものの日本精神の持主ではなかろうか」と言ってゐるが、横松は訪問時の「話の内容は、今日ほとんど忘れてしまった」と記す。
 「皇道主義者」の行動を全否定してゐたわけではない。

彼の門下生たちの集団自決の報道を読んで一種の言い知れぬ哀感に満たされたことも事実である。それは思想的な共鳴とは全くちがう日本民族のもう一つの宿命的な情感のようなものであったかも知れない。

 講義では批判的だったが横松だが、情感では哀感を覚えてゐる。
 一方嫌悪の情を抱いたのは児玉機関の児玉誉士夫で、「莫大な金塊やダイヤモンドを積載し、特別機を仕立てて日本に帰った」といふ話を書き留めてゐる。引き揚げの荷物制限で持ち帰れなかった3000冊の蔵書にも触れてゐて、「書物を持帰ろうとして帰国を延期された」といふ噂も耳にしたことも児玉批判の理由の一つだらう。
 横松は右翼について疑問を抱く。

一般的にいって、いわゆる右翼なるものの中には、こうした極端な金権体質をもつものがあるが、果して皇道精神は手段で、金を儲けて権力を握ることが目的なのか。金儲けと権力を握ることが手段で、天皇制を護持することが目的なのか。それとも皇道精神の右翼と暴力金権派の右翼とは根本において一つなのか。これらの問題はもっと究明する必要があろう。

 

小坂藤若「鎌倉たるものちょっと浮ばれないだろう」

 小坂藤若『随筆 あとの鴉』は昭和45年11月刊の自費出版
 年譜によれば小坂は明治28年1月、鎌倉生まれ。本務の八雲神社のほか、11社を兼務する神職。神奈川県神社庁副庁長、のちに顧問。鎌倉市助役も務めた。
 書名に随筆とあるが、全202頁のうち随筆は約30頁。祝詞が10頁。昭和8年、徳富蘆花の小説「不如帰」の碑が逗子にできたときの祝詞もある。
 あとの150頁が日誌で、実際は日誌が大部分を占める。内容は皇典講究所での学生生活、軍隊への入営・除隊、結婚、鎌倉町役場での勤務、大正期の鎌倉の様子など多岐にわたり、分量も多く興味が尽きない。
 始まりは大正3年8月31日。当時の皇典講究所は9月始まりなので、入学のため上京した。ひと月を13円でやり繰りする計画を立て、たまに飯田橋から神保町や今川小路に行き古書を買ってゐる。
 大正4年12月に入隊。20日が軍旗祭で昼食は特別メニュー。

小豆飯、豆きんとん、蒲鉾、焼鮒三串、鰻蒲焼二串、大福餅二コ、餡パン五コ、密柑一コ、酒少々という豪勢なもの、酒は古兵に呑んでもらった。

 と詳しく書いてある。軍隊で鰻。
 大正8年5月26日の日誌には自殺者続出の話。

年若い未婚の女、鎌倉を始めて見る者等が多いそうだ。いっそ死ぬなら景色のいい鎌倉でと、とんだところで自殺者の名所になろうとは、鎌倉たるものちょっと浮ばれないだろう。

 のちの「不如帰」の碑除幕式の祝詞には「観光客(たづねびと)が上にも禍神の禍事なく、町のありかた弥栄えに栄えしめ給え」とある。
 大正10年9月29日は大磯で起こった、朝日平吾による安田善次郎刺殺事件について。「斯くの如き行為は(略)模倣的類似の犯行者を出した例が多い」などといふ新聞記事を引用。

第二の朝日を出し、安田翁を出すようなことはないであろうか。
 物騒な世の中になったものである。

 と慨嘆してゐる。
 小坂は句作をよくし、蓑虫やコホロギ、ミミズなど、他人の目には入りにくい小さいものにも目を向ける。病人や死人など不遇な人のことも多く記す。大正8年6月1日は鎌倉にゐた乞食、通称「外套」のこと。

若い時は学問が好きで日夜読書に耽っていたが、どうしたはずみか発作的に狂った。その後狂態だけは除かれたが、脳は尋常に回復せず、遂に今日のような落魄放浪する身となってしまった。(略)
 私の家へもよく来た。台所の窓際に立って「何かないかねえ」という彼の姿を見て、可哀想だなあと思うのだった。

 手元の物には「鎌倉タイムス」昭和46年1月25日号、第689号が挟み込まれてゐた。毎月3回5日発行とある。題字は里見紝。ペラ1枚で全2頁。2頁目は下半分以上が広告で、その上に『あとの鴉』と著者の紹介。500部の限定出版とある。「著者のこまやかな、人情味あふれる人柄がしのばれる」。「『昭和鎌倉史』をまとめることを期待したい」。


 
 

真壁宗雄「要は日本を再建したいことだけだ」

 続き。『日本人ここにあり』には、写真は著者近影しかなかった。『別冊 実話特報』双葉社、昭和37年7月号(6巻7号)では「当代怪物列伝 人間タンク再び始動す!」で真壁宗雄を6頁にわたって取り上げる。動きのある真壁宗雄の写真が沢山掲載されてゐる。
 真壁宗雄が写ってゐるのは8枚。座って手紙を書いてゐる真壁宗雄。机上の封書をよくみると、奥のものは「西尾末廣」と読める。手前のものは「迫水○常」。これは迫水久常だらう。笹川良一宛てもある。隣は自転車に乗る真壁宗雄。近所の安岡正篤の家と往来してゐたらしいので、この自転車で通ったのかもしれない。
 門前で手紙を読む真壁宗雄。表札が三つある。「新生活文化協会」「日本小鳥協会」「親米建国党連絡所」。小鳥の世話をする真壁宗雄。鉢植えを眺める真壁宗雄。左手に受話器、右手に鉛筆を持つ真壁宗雄。麦藁帽を被って歩く真壁宗雄。両手に親米建国党の提灯を持つ真壁宗雄。
 記事は阪谷男爵を坂谷男爵、座禅会を座談会と取り違へてゐるのが惜しいが、真壁宗雄の語録がとても面白い。

共産党という名前は実にいい名前だな。共に生する。お前たちは日本のためには何も産しない。ソ連の飼犬になっているばかりだ。どうだ? おれに共産という名前をくれ。共産党党首はおれだよ」

「おれのいう親米は一時の便宜手段だ。アメリカが日本の再建を援助してくれるなら親米になろう。だがソ連の方が物資をくれてて力を貸してくれるならすぐ親ソ建国党になるぞ。要は日本を再建したいことだけだ」

大日本帝国残存政府内閣総理大臣のつもりだった真壁宗雄

 『日本人ここにあり 野人真壁宗雄の生態』は篠田五郎編、平成3年6月、真壁宗雄自叙伝刊行会発行、岩波ブックセンター製作。序文は元日本経済新聞政治部記者の大竹央。 
 当時存命だった真壁宗雄の生涯をまとめた本。初めは篠田が取材旅行をして多田駿陸軍大将のゐた家に行ったりしてゐるが、全7章のうち4章以降は真壁本人の文章。同じ話を繰り返したりもしてゐて、読みにくいところがある。さうでなくても謎の人物で、履歴を追ふだけでも苦労する。
 真壁は明治42年3月、福島県生まれ。郵便局勤務ののち法政大学卒業、国策会社の華北電信電話株式会社、北京日本商工会議所で働く。北京飯店の座禅会で楢橋渡、多田駿と知り合ふ。終戦後、真壁は多田から青酸カリの入手を頼まれ、巣鴨プリズンの入り口で渡す約束をしてゐる。
 終戦直後、北京飯店を進駐軍の将校宿舎にする際は、互角に渡り合った。

「北支には無傷な日本軍は五十万、すぐ行動出来る。やる気なら、進駐米軍三万五千くらいは朝飯前にかたづけてみせる。(略)明朝から朝食に出るオートミルは注意してとるがよい。貴方方の出方次第では何時でも青酸加里を混入してやる」

 以降は不平をいふ将校はゐなくなったといふ。
 幣原喜重郎内閣成立後、国務大臣秘書官の辞令を受ける。幣原との会話。

「(略)私は赤旗は嫌いだ。青旗をふって、赤旗の向うをはって、国民大衆を動員して政府への八百長攻撃をやりたいが、どうですか。(略)」 

 真壁は、赤旗を振る人の中には善良な国民の声もあるといひ、赤旗は嫌ひだが彼らの意見は汲み取りたいといふ。そのやりかたを青旗、八百長攻撃と表現してゐる。
 次の幣原への挨拶も真壁の信条が表れてゐる。

「(略)こんな混乱期、政府が二つあってもおかしくはないでしょう。一応幣原さんは傀儡政府の総理大臣、私は正式の名のりはしませんが、大日本帝国残存政府総理大臣のつもりで、幣原内閣辞職までお付き合い致しましょう」

 幣原はGHQの傀儡で、真壁自身の方こそ大日本帝国残存政府の総理大臣だといふ。政府が二つといっても、真壁の方が正統性があるやうな口ぶりだった。
 秘書官を引き受けるときも、既に楢橋とは仲違いをしてゐて、秘書官室には入らなかった。国務大臣秘書官だが、楢橋国務大臣の秘書官とは認めなかった。
 石橋正二郎宅に滞在中、安藤明と田中清玄の訪問を受ける。楢橋を殺すため所在を尋ねに来たのだが、この時も「楢橋さんだけは他人の手にはかけぬ。この自分がやる」。楢橋には殺すほどの価値はない、やるときは真壁が自分の手でやると言って、うやむやにする。その後安藤からは「親分」「おやじ」と呼ばれる中になり、資金援助も受けた。安藤が逮捕された時は、減刑嘆願をしてゐる。続く。 


・クロワッサンの特集に宮崎滔天『三十三年の夢』。