大日本帝国残存政府内閣総理大臣のつもりだった真壁宗雄

 『日本人ここにあり 野人真壁宗雄の生態』は篠田五郎編、平成3年6月、真壁宗雄自叙伝刊行会発行、岩波ブックセンター製作。序文は元日本経済新聞政治部記者の大竹央。 
 当時存命だった真壁宗雄の生涯をまとめた本。初めは篠田が取材旅行をして多田駿陸軍大将のゐた家に行ったりしてゐるが、全7章のうち4章以降は真壁本人の文章。同じ話を繰り返したりもしてゐて、読みにくいところがある。さうでなくても謎の人物で、履歴を追ふだけでも苦労する。
 真壁は明治42年3月、福島県生まれ。郵便局勤務ののち法政大学卒業、国策会社の華北電信電話株式会社、北京日本商工会議所で働く。北京飯店の座禅会で楢橋渡、多田駿と知り合ふ。終戦後、真壁は多田から青酸カリの入手を頼まれ、巣鴨プリズンの入り口で渡す約束をしてゐる。
 終戦直後、北京飯店を進駐軍の将校宿舎にする際は、互角に渡り合った。

「北支には無傷な日本軍は五十万、すぐ行動出来る。やる気なら、進駐米軍三万五千くらいは朝飯前にかたづけてみせる。(略)明朝から朝食に出るオートミルは注意してとるがよい。貴方方の出方次第では何時でも青酸加里を混入してやる」

 以降は不平をいふ将校はゐなくなったといふ。
 幣原喜重郎内閣成立後、国務大臣秘書官の辞令を受ける。幣原との会話。

「(略)私は赤旗は嫌いだ。青旗をふって、赤旗の向うをはって、国民大衆を動員して政府への八百長攻撃をやりたいが、どうですか。(略)」 

 真壁は、赤旗を振る人の中には善良な国民の声もあるといひ、赤旗は嫌ひだが彼らの意見は汲み取りたいといふ。そのやりかたを青旗、八百長攻撃と表現してゐる。
 次の幣原への挨拶も真壁の信条が表れてゐる。

「(略)こんな混乱期、政府が二つあってもおかしくはないでしょう。一応幣原さんは傀儡政府の総理大臣、私は正式の名のりはしませんが、大日本帝国残存政府総理大臣のつもりで、幣原内閣辞職までお付き合い致しましょう」

 幣原はGHQの傀儡で、真壁自身の方こそ大日本帝国残存政府の総理大臣だといふ。政府が二つといっても、真壁の方が正統性があるやうな口ぶりだった。
 秘書官を引き受けるときも、既に楢橋とは仲違いをしてゐて、秘書官室には入らなかった。国務大臣秘書官だが、楢橋国務大臣の秘書官とは認めなかった。
 石橋正二郎宅に滞在中、安藤明と田中清玄の訪問を受ける。楢橋を殺すため所在を尋ねに来たのだが、この時も「楢橋さんだけは他人の手にはかけぬ。この自分がやる」。楢橋には殺すほどの価値はない、やるときは真壁が自分の手でやると言って、うやむやにする。その後安藤からは「親分」「おやじ」と呼ばれる中になり、資金援助も受けた。安藤が逮捕された時は、減刑嘆願をしてゐる。続く。 


・クロワッサンの特集に宮崎滔天『三十三年の夢』。