図書夫だった岡崎功

   図書夫となる

塵つもる書籍を取りてうち掃ふ
 楽しみをもつ身とはなりたり

   占領軍の指令によりて多くの図書焚かる

この本(ふみ)もこれやこの書(ふみ)あの本(ふみ)も
 軍国主義と焚(や)かる口惜(くや)しさ

 岡崎功『歌集 火雲』(第六版)より。昭和43年2月、淞南学園文芸部発行。序文は今東光藤本光城。今は岡崎を「国宝」「熱血漢」と持ち上げてゐる。
 文芸部の「跋にかえて」を読むと岡崎の人となりがわかる。岡崎は終戦後の8月24日、七十余名で皇国義勇軍を組織。島根県庁を焼き討ちし放送局を占拠、徹底抗戦を主張した。下獄中は模範囚として過ごした。冒頭の歌はその頃のもの。図書夫といふのはいはば獄中の司書。その他に明治天皇詔勅の本を処分されたことも詠ってゐる。恩赦後に私立淞南学園を創設し理事長になった。
 戦時中は東条内閣倒閣運動ののち、勤労動員署に勤務。家庭の事情がある男女を動員されないやうに手配した。
 みんな同じ人。

 

時宗神社創建の賛同者たち

 『元寇完遂 時宗公の忠誠』は鈴木隆著、時宗神社創建会、昭和18年1月発行の冊子、非売品。鈴木は創建会理事長。
 鈴木は元寇から日本を守った北条時宗を祀る神社を創建すべく奔走。阪本広太郎考証課長からも協力を得て、時宗公に関する資料を集めるやう助言される。そこでまとめたのがこの冊子。
 時宗公は勅裁を受けて行動したこと、明治天皇時宗公を従一位に叙したことを述べ、時宗公の忠君愛国精神を強調してゐる。
 鈴木は昭和17年2月以来、朝野の名士600余人を訪問、弘安神社(仮称)の創建を訴へた。その返答の一部として18人が列記されてゐる。すべて大賛成の意見ばかりだ。
 「別格官幣社を目標に」(林銑十郎)、「全国民が後援しなければ」(四宮憲章)、「まだ祀つてありませんでしたか」(有馬頼寧)、「講演でもやる時は何時でも出ます」(中野正剛)「早く書類を出して審議してもらふがよい」(水野錬太郎)。
 鈴木孝雄は

私は靖国神社宮司でありますから、発起人には何処へも名を出さぬことにしてゐます。しかし時宗神社だけは当然過ぎる程当然でありますから、進んで発起人に署名します。

 とし、藤原銀次郎も同様に、進んで署名すると言ってゐる。
  鈴木隆の住所は大船のやうだが、どこに建てるつもりだったのだらうか。


 

大巴賀参太郎・頓間抜作・螺尾吹太郎の建言

 『大巴賀参太郎・頓間抜作建言写』は全24丁。大巴賀は大ばか、と読むのだらう。この2人が明治3年に建言したものの写し。
 その建言は突拍子もない内容で面白い。まづ神祇官と宣教使を置いたことに触れる。

宣教の御趣意は五倫の道を廃し貪欲無慈悲の趣意を普く布教いたすべきの筈

そこで

博徒の長、あるいは府藩県獄囚の内相応の者を見立て候やう仕るべく候

 世の中は貪欲無慈悲だといふことを教えるため、博徒や囚人を採用すべきだといふ。

 また御一新以来、電信や鉄道ができた。そこで大峯・日光・鞍馬などの天狗どもを召しだす。

通力をもって空中飛行千里の波濤も一瞬間に相通じ如何様の御密事といへど他に漏れ候憂ひなく人力を労せず

 と、天狗を活用する機関を開局すべきだといふ。

 北狄の脅威に対抗するため、神風を起こすことも提案。

器械弾薬人力を費やさず醜夷を圧倒し神州の御国威万国に光輝し外患消滅

 と、神風での解決を唱へる。

 これらのあとにはそれぞれ「御附紙」で当局からの回答が示されてゐる。

 もちろん良い返事はない。これを聞いた大巴賀と頓馬の親友が螺尾吹太郎。「一時救急の策」として提案したのが狐に勅命を下すこと。
 東京では王子や妻恋、大坂では坐摩や玉造稲荷など諸国高名の稲荷から開港場へ赴かせる。

木の葉をもって小判と見せ石地蔵を美人と見せ馬糞を牡丹餅と見せ蚯を温飩と見せ候などかねて得意の妙術

 を活用する。これで国債を皆済する。その上、石地蔵のラシャメン(洋妾)で夷人から金銀を巻き上げる。木の葉なので実際の金銀は流出せず、「莫大の御国益」「富国強兵の御基礎」だと自画自賛する。うーん。


 

会津藩の隠密探偵だった大庭恭平

 『上田郷友会月報』の大正4年1月号は通巻339号で三十週年紀年号。編集担当として小林雄吾の署名がある。
 後半はすべて小林が書いた、第6代上田藩主松平忠固公の伝記。開明派の忠固は攘夷派の徳川斉昭と対立。斉昭のことは「其の為人や偏にして屈、頑にして固、猜疑の念深く、愛憎の情深くして、雅量は甚だ乏しく…」と描く。
 ほかの記事の千岳生「斬像事件の両壮士」は、幕末に平田派国学者らが起こした足利三代木像梟首事件の逸話。大庭恭平は会津藩士で「磊落粗放」「常に鯨飲痛罵」、堂々とした偉丈夫だった。

会津侯は彼を抜擢して隠密探偵と為し、薩長等の浪士と交はらしめ、其挙動を探らしめ、併せて薩長諸藩の消息を窺ふの便に供せり。

 薩長の浪士と交はり得た情報が京都守護職松平容保に伝へられてゐた。ところがいつしか、大庭の挙動を怪しむ者が出始めた。そこで斬像のことを提議し、秘密を晦ませたのだといふ。大庭は事件後、上田藩に預けられた。
 これが本当か分からないが、過激派が木像を斬って河原に捨てた奇妙な事件といふ印象が少し変はってくる。

 もう一人触れられてゐるのは、やはり上田に幽閉された師岡節斎。大国隆正の高弟。「等持院の事を詠める歌」の長歌を載せる。反歌

 五百歳の昔我輩生れ出ては 
  かくしてましをその現身を

 もし自分が500年前に生まれてゐたら、木像ではなく本人を同じ目に遭はせてやったのに、といふ歌。「筆力何ぞ雄勁なる、壮士の面目句々の間に躍如たり」。

足利尊氏の墓を毎朝起こした吉田妙

『塔影』は塔影詩社発行。昭和61年6月発行の213号は最終号で島本久恵追悼号。「島本久恵略譜」も収める。
島本は明治26年2月生まれ。夫の河井酔茗と女性時代社を興し『女性時代』を発行。恩地孝四郎の表紙が印象的だったと回顧されてゐる。戦後の昭和23年1月、男性にも門戸を開き塔影詩社とし、『塔影』を発行した。60年6月没。
追悼号には島本の「尊氏の墓」が載ってゐる。昭和10年7月、鎌倉に行った時に執筆したもので、掲載された形跡はないといふ。この中で、当時から17、8年前に会った女流棋士、吉田妙のことを思ひ出してゐる。以下は吉田の話。
吉田は尊氏の墓がある廃寺に起居してゐた。

すると尊氏の墓が毎日倒れる、これはもとから聞いてゐたことなので、毎朝行って起すが、毎朝倒れてゐる。長い間に倒れては欠けて石の安定もわるいのであろうが、街道を通りかゝりの鎌倉の遊覧者が入って来て倒して行くのでもあろう。けれどもまたそれだけではないような気がする。あまりに倒れるのだ。自然に立ってゐられないのだといふ気がする。

尊氏の墓が毎朝倒れるのは重大な意味があるやうに書かれてゐるが、大正の半ばでも嫌はれてゐて、実際は建ってゐるのを見た人が倒してゐたのではなからうか。
吉田生緒「母に代りて」は大正期の女性雑誌の編集ぶりが描かれる。父の吉田常夏は酔茗から『女子文壇』を引き継ぎ、誌名を『処女』に変へてしまった。『女子文壇』の末期は営利主義で暴露記事が多くなってゐたので、『処女』は純文学的に方針転換した。
母の吉田静代は『女子文壇』の記者として入社したが実は人手は足りてゐて、同じ社の通俗雑誌、『うきよ』の編集が主だったといふ。口絵のモデルや探訪記事の仕事をしてゐた。
『うきよ』は売れ行きが良かったとあるが、芸妓の写真や探訪記事が多かったと思ふ。

逆木原秀男「あなたのおカネはその日から生き生きと働くことでしょう」

 『おいね殺し 商品相場の内幕』は井出英雅著、恒友出版、昭和46年5月発行。序文は高槻圭。
 乾繭や綿糸などに投機する商品相場を勧誘する手口、被害の実態をドキュメント風につづったもの。固有名詞は仮名にしたとある。冒頭「あっため奥さんを狙う」とある。これは資産を持って温存するだけの婦人たちのこと。彼女たちから商材や訪問、口車によって金を巻き上げる。損することになっても、夫や家族に知られたくない。あと幾ら出せば取り返せる、などとそそのかされて、結局大金を失ふことになってしまふ。

財産は卵にたとえられよう。うまい。固い。もろい。狙われる。

 と畳み掛ける文章がいい。
 新聞広告やパンフレット、業界紙、書籍が勧誘の第一歩。たとへば、儲かる銘柄を教えるといふ株式投資の指針誌、「日経タイムリイ」の広告を日経新聞に出す。日経新聞と関係がなくても、読者は日経に載ってゐるからと信用する。請求すると見本誌を送ってくれる。
 書籍では逆木原秀男『巨富を築く お金をふやす本』(日東スーパー商事株式会社出版部発行)を例にとる。実は「甘言をささやく単行本」だといふ。その一節が引用されてゐる。

この一冊をよめば、あなたのおカネはその日から生き生きと働くことでしょう。おカネを寝かせておくことのバカらしさがしみじみおわかりいただけるはずです。

 「いまにも聖徳太子がひらひら舞いこんでくるような気がしてくる」が、もちろん、この本を読んでもうけた人などゐない。

これら単行本のモチに足をねばりとられたものが、世に何十万何百万人いることか。

 仮名なので著者も書名も実在しないものが、このやうな書籍がおびただしく発行されたといふ。
 だます方の取引員(仲買人)たちはエンゲルスマルクスの名字と言ひ張るなど、知識があるとは言ひ難い。だまされる方も、勧誘話のほとんどを理解してゐない。ただ絶対もうかるとか、損はしないとか、信用してくださいといふ口車に乗せられて被害に遭ふ。
 いかさま広告を禁止する法令も載ってゐるが、あまり効果はなかった。



海老塚利明「心胆を寒からしめるような記事でいっぱい埋まっている」

 『経営攪乱の防衛策 企業の裏街道を行く』は海老塚利明著、昭和39年11月発行。版元の白桃書房は神保町で会社経営に関する本を出版。「マネジメント・ライブラリー」シリーズで『会社はなぜつぶれるか 経営破綻のはなし』を皮切りに『経営昆虫記 人と虫との経営くらべ』『あなたは疲れている 作業量と疲労』などを世に出した。
『経営攪乱の防衛策』は64冊目。会社に損害を与へる産業スパイ、総会屋、組合活動家を取り上げ、その実態と対処法を述べる。

この種のきわどい問題は、なかなか実証的なデータを公然と収集しにくいということと、舌禍ないし筆禍によって、いつかわが身にふりかかるであろう危険を極度に警戒し、最初から意識的な敬遠策をとったとしか考えられない。

 と、研究が進んでゐないことを指摘。しかし彼らを敬遠すると最悪の場合、経営破綻にもなりかねないと警鐘を鳴らす。
 産業スパイ編では社内報や工場案内の注意点、対情報用科学器材(シュレッダー)などに触れ、情報管理の重要性を強調する。最後は結局社員に不満があり情報が洩れるので、愛社精神が大事だとし、労務管理のためのカウンセラーや人事相談室について紹介してゐる。
 総会屋編では実例や行動パターンを紹介。「みやげ」の有無をまとめた表では、会社から株主への手土産として、品名を列挙。味の素とか便箋セット、最中、ドラ焼きなどを用意してゐるのだといふ。
 総会屋の出版物も薄いものから雑誌状のものまで多岐にわたると解説。

これらの新聞・雑誌は、会社側の心胆を寒からしめるような記事でいっぱい埋まっている(略)総務部のおえらがたは、そのなかから、総会当日予想される質問をいくつか選択し、チエをしぼってその答弁を用意する。

 「企業防衛の最前線」で取り上げるのは、受付係。「面会強要者に対しても、臨機応変の接待技術が必要になる」。著者は人相や行動でかういふ人は要注意だとアドバイスしてゐる。わかりやすい例としては次のやうな描写がある。

衆議院八回、参議院四回、合計十二回の国会議員選挙に出馬、ゴールインはまだというC級総会屋K氏のごときは、一見〝人生劇場〟の壮士風。ケシズミ色の羽織、むらさきのハカマ、あい染めの着物に白タビという異様ないでたちを売り物にかっ歩している

 昭和30年代は壮士風もゐたらしい。
 
 組合活動家の章では、総評が設立した出版社、新週刊社と『新週刊』を取り上げる。発行部数や経費にも触れる。

経営批判はお手のものだが、いざ実際に自分たちが会社を運営する段になると、とかくまずい結果になりやすいようだ。

 裏表紙には「ほかの方々にも読ませてみたいとお思いでしたら、(略)この本をお貸し下さるようお願いします」とある。「買ってください」でないところが謙虚だ。