黒神直久「中小神社が神社界の基盤なんですよ」

 『人間 黒神直久』は富田義弘著、山口新聞社発行、平成2年5月発行。国会図書館にない。黒神直久は山口県徳山市の市長、徳山商工会議所会頭、神社本庁総長などを歴任。その間、遠石八幡宮宮司も務めた。いくつものわらじを履いた黒神の生涯をたどり、読みやすくまとめたもの。年譜つき。

 著者は山口県下関市生まれで、民話や方言などの著書がある。アルバム8冊の提供を受け、巻頭には黒神の写真が多数収録されてゐる。カラー20枚は公的なものが主で、「徳川宗敬統理と芸能界の美女たちと」なるものも。名前がないので誰か判別できす。セピア色のものは35枚で、國學院大學時代、結婚写真など。山下清展テープカットでは黒神の後ろから山下が覗き込んでゐる。

 黒神は明治40年12月生まれ、昭和62年5月帰幽。市長時代は徳山にモーターボート場を開設し、財源を確保。バクチは見たこともやったこともなかったが、反対派とも対話して実現させた。出光興産徳山製油所の誘致にも成功し、起工式では敬神家の出光佐三の要望に応へ、神主として奉仕した。すぐにモーニングに着替へて市長としてお祝ひの挨拶を行った。

 昭和58年6月、神社本庁総長に就任。西日本初・中小神社の諸社出身としても初として注目された。黒神は次のやうに語ってゐる。

「中小神社があってこそ、はじめて大社が成り立っているんですよ。(略)中小神社が神社界の基盤なんですよ。その上に大社はジーッとあぐらをかいている。(笑い)」

 氏子とのつながりが強い中小神社の意義を語ってゐる。神社本庁庁舎の建て替へ問題も黒神國學院の同級生だった、明治神宮の高澤信一郎宮司から無償で土地が借りられて計画が進んだ。

 総長になると日本宗教連盟理事長などの肩書が何十も増える。5月は家に3日しか帰れず、6月も4~5日だったと激務ぶりを語ってゐる。庁舎の完成を見ずに亡くなり、胸像が総長室に飾られた。