『二 十世紀 新論文』は小宮水心編、立川文明堂発行、大正11年4月発行。手のひらに収まるポケット判。小宮は手紙や文章の書き方に関する本を多く残してゐる。本書はいろんな青年男女の短文を集めたもの。名字はなく下の名前だけ。執筆者の来歴などはよくわからないが、現代にも通じる意見が述べられてゐる。
目に留まったところをどこからでも読める。卓子は読書の楽しみを論じる。
読書の楽みは、いたづらに時日と財とを費さず、友をも求めず、かくて其読む書も月に日に進歩して、新刊の数も日一日より多大に赴きつゝある今日、いかでか此楽みのみは、とはにとはに尽くることのあるべきかは。
読書は時間もお金もかけず、友も要らない。新刊はどんどんたくさん出版される。読書の楽しみは尽きることがない。ただ楽しいだけではない。知識を得て道徳も修められ、国家に尽くす基にもなる。
梅風は「書籍の選択」を書いてゐる。
然れども思へ、書籍は必ずしも益するものにあらざるを、中にはかへりて害あるものなしとせず、吾人は書籍によりて得る所あらんとし未だ一利を得ずしてかへつて先づ、一害を見る事あるべし。
と、書籍の害を論じてゆく。
書籍を読むの本義は人生に裨益するにある事をわするべからず、書籍を読むは人の天職にはあらざるべし。故に己の志を達するに必要なるものを多く熟読すべく乱読は必ず之を避けざるべからず。
人の生命には限りがある。乱読して時間を無駄にすることは避けるべきだ。大工志望が家を完成させるといふ本来の目的を忘れて、壁塗りばかりするのと同じことだ。全くその通りだ。
また別のページを開いてみる。せい子が「楽しくくらせ」を書いてゐる。目次ではいせ子。彼女は貧乏を恨んだり、他人をうらやましく思ふことが好きではない。
どうせ短い生涯ですもの、長くはない命ですもの、一日でも半日でも、此貴い生涯の一部である月日を、愉快にすぐす方がよつぽどましだと思ひます。
貧乏でつまらないつて、いくら零してみたところで、何処からお金が出て来ませう。まさか御伽噺じやあるまいし、天から降つて来ますまい、
「御伽噺じやあるまいし」がすてき。鼻歌でも歌ひながらせっせと働けば、ひとりで豊かになりませう、それが真の幸福でせう、と語りかけてゐる。