鼻が利かない煙山萩子を描いた村山鳥逕

 『乾胡蝶』は村山鳥逕著、祐文社、明治40年7月発行。画は橋本邦助。村山は尾崎紅葉門下生らと交友があった小説家、牧師。この本には宗教的な内容はない。書名からはわからないが、収録された8編の小説には必ず夫婦の会話が出てくる。いろいろな夫婦が登場する心理小説で、現代でも面白く読める。

 「坦道」「風来犬」「復讐」「趣味女房」「生効」「世帯」「ひと夜」「片輪同士」の8編のうち心に残ったものを取り上げる。「坦道」は冒頭一行目から

「自分の額の真中に、短銃(ピストル)の口を当てゝ、爆然(づかん)と一発放(や)つたら奈何(どう)だらう。」

と始まる。主人公の小鳥遊孜郎はここ毎朝、こんな考へが思ひ浮かぶ。周囲に銃に関係するものはなく、すぐに忘れてしまふ。しかしまた朝になるとこの考へが浮かんでくる。なぜなのか。小鳥遊が原因を追求し、妻との会話から糸口を掴む。

 「風来犬」の主人公は、すでに犬を一匹飼ってゐる。そこにもう一匹、風来犬といふ野良犬がやって来るので、餌をやったりしてかはいがってゐた。妻はもともと犬が嫌ひだが、最近はさうでもないそぶりも出てきた。その風来犬が庭に居るとき巡査が訪問し、犬を引き渡してほしいといふ。近所の家庭のものを勝手に食べるなどして、迷惑をかけてゐるのだといふ。自分の子供や飼ひ犬だったらどんな悪さをしても守るだらうが、何しろ風来犬。情が移ってきたところだが、自分の犬ではない。果たして主人公はどうするのか。風来犬をめぐって、巡査や妻とのやり取りで話が展開してゆく。この一編など国語の教科書や試験問題に採用してもよいくらゐ、心情が濃やかに描かれてゐる。

 最後の「片輪同志」は分量は本全体の半分を占め、内容も充実してゐる。妻の萩子には、夫に隠してゐる秘密があった。鼻が利かないのだ。比喩ではなく嗅覚に欠陥があり、匂ひがわからない。

 夫は逓信省技師の煙山坦二といひ、4年前に結婚した。坦二が友人と日比谷公園に出かけたときに知り合ったのが、ドイツから帰朝したばかりのドクトル那波。耳鼻咽喉科の医者だといふ。たった今気づいたが、那波は鼻とかけてゐるのだらう。彼によれば神経衰弱や女性のヒステリーは、鼻の異常が原因なのだといふ。実は坦二は以前から、萩子のそっけない態度やいびきが不快だった。

 三橋亭での詳細なビリヤード描写を挟んでの、帰路の縁日での出来事も読む者をざはつかせる。気に入った花サフランの匂ひを嗅がうとすると、植木屋は「おつと旦那是には惜しい事には香(にほひ)が無えんで。」と言ってまけてくれた。匂ひのない花サフランを買った坦二はある事を思ひつく。「この花で妻の嗅覚の試験をして見よう」。

 妻の嗅覚異常は夫にバレてしまふのか? そして夫婦の行く末は?といった興味を持たせながら、話が進んでゆく。

 どれも明治39、40年の作品だが、古さを感じさせない逸品。