『応援団長』(平井義一、昭和39年10月、創元新社)は平井義一が波瀾万丈の半生をつづったもの。挿絵は笠井一。平井は大正2年3月、現在の福岡県豊前市生まれ。明治大の応援団長、東京の中心、麹町区会議員などを経て、戦後に衆議院議員にもなった。
火事から妹を救ったり、奉公先で豪雨から川の木材を守ったりといった善行の一方、神社の鯉を勝手に捕って仲間と食べたり、出身の八屋村の合併問題でも騒動を起こす。昭和7年明大入学。
どういうものか私のすること万事が、人々の記憶に残るらしく、私の名はいつか学校中で、知らぬ者がいないほど有名になっていた。
そこでもストライキで停学、退学させられてしまふ。応援団の描写は少ない。
麹町区会議員になったのは、ばったり会った井田男爵の話から。フルネームが書いてないが、これは井田磐楠男爵だらう。都議会議員に立候補したときは対立候補から、「平井には召集令状が届いた」といふ噂を流されて落選した。出征したら満足に議員活動などできないと思はれたからだといふ。開票日にはその候補が白状して謝りに来た。今もある女学校の老齢の創立者で、平井に土下座するイラストが描かれる。
大陸に視察に行く前には頭山翁を訪問。和平工作を依頼される。
「蔣介石と会って、無駄な戦争をやめさせるのだ、軍と軍とでは容易に話がまとまらない、いや絶対に不可能だろう。だからこそ無名の青年の方がいいのだ」
上海から先、重慶は警戒が厳しく、目的を果たすことができなかった。
代はりに接触したのが児玉機関。本人には会へなかったが大金をもらって豪遊した。
平井は学生時代、北一輝の門下生の馬場園義馬の元に住んでゐて、同じところに児玉もゐた、と書いてある。天行会事件で児玉が入獄したときも面会。弁護士か裁判官になって早くだしてやると誓ひを立ててゐる。
読んでゐてよく分からないのがつながりのきっかけで、馬場園との縁も不明。井田とは旧知の間柄、としか書いてない。頭山翁も突然登場する。上京してからの縁だらうが、明記してゐない。
これもどういふ伝手かわからないが、戦争末期には軍令部を訪問。参謀大佐からよい作戦がないか聞かれ、無謀な作戦を答へる。
「これは、素人考えかも知れないが、ここまできたいじょうは、義勇軍を募って、八幡船を仕立ててロスアンゼルスまで行くことだ。小っぽけな八幡船では、アメリカ空軍も爆撃はしないだろう。うまくロスアンゼルスへ着いたら油田に火をつけるんだ。そうすると、アメリカは驚いて和平を申し込むかも知れない。今となってはそれ以外の作戦はないでしよう」
私は、思ったことを言った。
そんなことは莫迦莫迦しいと、一笑すると思いのほか、C大佐は非常に感銘して、
「それはいい考えだ、さっそく実行に移そうじゃないか」
と、言うのだった。
もちろん実現しなかった。戦後は公職追放になったが戦前の交友や行動で、珍しく解除された。裏表紙の書評では「いわゆる戦中派的な苦悩を十分に味わっているようだ」とあるが暗さはなく、「快男児」「義理と人情」の形容のほうがふさはしい。