椎尾ひとし「古に復らうとするのは大間違である」

 椎尾ひとし(言+同)『一九三六年何のその』は昭和10年3月、創生社発行。名前の言+同といふ字は漢和字典でもでてこない。名古屋の椎尾なので椎尾弁匡の親戚か何かではないか。
 当時、非常時といふ言葉がはやった。この書は、非常時とは何かについて、自身の哲学や文明観で論じたもの。
 聞きなれない言葉や独特の意味づけがあって読みにくいが、何度も読んでかみ砕いたり補ったりすると、椎尾のユニークな主張がわかってくる。
 椎尾は個人主義の悪弊を指弾する。これは個人の対立を認めるもので、「名誉、優越、卑屈、嫉妬、被害、脅迫、階級、闘争、秘密、陰謀…」の心境を生じさせる。
 これを超克するものは条件律思想であり、「無所有、無所得、平等、共生、守分、不奪、公明、正大、立憲、合議、無我」などの心境を生じさせる。
 では条件律思想とは何か。椎尾は西瓜農家を例に挙げて説明する。西瓜を実らせるのは耕作者だけの手柄ではない。耕作者の他にも天候や種の遺伝、農具の鉄、その鉄を加工した人、鉄鉱から採掘した人、畑の見回りをした人、さらにそれらの人々の両親や関係者など、多数の人々の存在があって西瓜が収穫できた。このうちのどれか一つの条件が欠けても西瓜はできなかった。耕作した人物一人が偉いのではなく、「天下の宝」である。「一切は遺伝、環境、教育、思想、食物等天地一切の力の現れである」。
 原因と結果は一対一ではなく、もっと複雑な背景を持ってゐる。この条件律思想は仏教の縁や神道の特色で、個人主義の西洋にないものである。

 日本の祖先崇拝は決して亡国思想ではない。旧来の仏教儀式等で位牌や石牌を拝む形は支那臭いものだ。祖先の言行を思ひ出して、現在の行動の参考に、刺戟にする事はよいが、古に復らうとする事は大間違である。

 神道等でよく「古に復れ高天原時代はよい時代だつた」等と云ふが、これは大陸思想の偽装であつて日本思想ではない。

 復古主義といふのは大陸由来の間違った考へである。古代を理想化して、現代と直結させるのは間違ひだ。物事はよりさまざまな条件で成り立ってきた。
 イヤサカや祓ひといふのも、独特の意味づけをしてゐる。

御祓は榊に御幣をつけて振り回し、災ひ、穢れ、罪、祟り等を祓ひ除く事をせられて居るが、真の御祓は「古いうなづけない考をすてて、新なうなづける考に移る」事である。其時其時に正しいと思ひよいと思ふ事にすなほに従ひ改め進む事である。

殊に生産方法等に付ては、たえずお祓にお祓を重ねて発明、研究、改良をして行かねばならぬ。そして失業なく、勤勉に、能率よく各々日本魂を以て働いて、良い品を多く廉く作らねばならぬ。

 真のお祓とはよりよい未来のために試行錯誤を重ねることである。イヤサカの思想は「世の中は登り坂にだんだんよくなるもの」。世の中ひとつの考へややり方で急激によくなるものではない。イヤサカの思想で何年もかけて発展し、御祓で改良を重ねたのに、古に復ってしまってはこれまでの苦労が水の泡だ。
 日本魂といふ言葉が出てきたが、これも現代のイメージと異なる。

上下の別なく各々其分担、本分、職分を守つて(守分)全力をあげてそれに尽す事となる。骨惜みだとか献身、犠牲等は個人主義の世界のものだ。
 この無我の守分を日本魂と呼ぶ。

 献身だとか犠牲だとかいふのは、個人の力を過大視した個人主義である。日本人はみなそれぞれ自分の職業などを分担して、職分を守り、結果的に一つの大きな仕事をしてきた。それが日本魂だといふ。