寛大過ぎる筧克彦

 『大八洲』は広島県神職会の機関誌。投書やクイズもあって、肩肘張らずに読める。
 大正14年(第14巻)9月号の「筧博士の神むながらの道を聞きて」は、7月28日から三日間、御調郡役所で行はれた筧克彦の講演の記録。二市五郡神職会主催なので、筧は神職会から異端視されず、信頼されて居たともみられる。
 筆者の渡橋連は筧の容貌から会場の雰囲気、皇国運動の実習のことまで丁寧に描いて居る。
 筧の特徴はまづその眼だといふ。

自分を引付けたのは実にその目なざしである凹ひ眼窩にヂツト坐はつて動かないが而し些の鋭るどさがなく親みと懐かしみに、しつとりと濡ふてあらゆるものを包容せんとしてゐる

 渡橋は感激してその様子を描くが、会場の迎へ方は何故か不備が多い。

時間に遅れた人々の騒々しい足音が聞き耳の立つて居る静寂を破る無遠慮な扇子が音を立てる、黒板に何か書かうとせられる、チヨークがない誰やらが慌てゝ之を持つてくる又しても黒板拭がないされど之等には全く無関心なるが如く面上には渾然として不断の笑みが慓つて居る

 神職なのに受講者は遅刻して、足音たててやって来る。着席して居ても扇子をバタバタさせる。筧が黒板に書かうとしても、チョークの用意がない。次は黒板消しがない。講師を迎へる態勢が全くなってない。それでも筧は怒らず、笑みを浮かべて居る。なんと寛大なのだらう。
 筧の和歌も紹介されてゐる。
「天行かは天を脊に負ひ根に去らば根の国提げまた帰り来ん」
「極楽や浄土の国に事足らひ生けらんことを我は欲りせず」
 たとへ死後に地獄や極楽のやうなところに行ったとしても、いつか再びこの世に戻ってくるのだといふ。七生報国楠公を彷彿とさせ、しかももっと大らかだ。
 最終日の3日目は皇国運動(やまとばたらき)の実習。

抛げ棄ての一運動に就て見るも無限のあなたを直視せらるゝその眼光、渾身の力を振つて不完全を遠く宇宙の外に抛げ棄んとせらるゝその意気込み、まあ―何といふ雄大壮美尊厳さであろふ

 体操の中に、投げ捨てるやうな動作があるのだらう。筧は無限の彼方を直視し、渾身の力で投げ捨てた。