東京タイムズ創立者で共同通信副会長などにもなった岡村二一。『岡村二一全集』(永田書房、昭和59年9月発行)全二巻がある。題字は中西悟堂、装丁は李友唯。第二巻が随筆・小説といふことになってゐる。もっとも「わが人生」「わが半生記」「小説 女の地図」、いづれも自伝的色彩が強い。
当時の哲学館、今の東洋大の学生時代に学長排斥運動で捕まり、護送車の中で江連力一郎と隣り合はせ、「もうひとあばれ」に勧誘される。
昭和20年8月12日、松村秀逸情報部長から、3日後に鈴木貫太郎総理が読む原稿の添削を依頼される。前田潔東京新聞総務局長に終戦を打ち明けると、前田が海へ行かうと言ふ。
「海へ? 何しに」
「釣だよ、艦砲射撃がこわいから、釣り舟なんか出す奴はいない、いま行ったら魚がウヨウヨしてるぜ」
戦中のことは小説仕立てにしてある。太原(書中では大原)の特務機関長、谷沢那華男が出てくる。これは谷萩那華雄のこと。
谷沢とは千吉が陸軍省詰の記者だった頃から、ウマが合って親しくつき合っていた仲だったので、互いに異境での再会をよろこんだ。
「那華男という名はナポレオンとワシントンが同居しているんだぞ」
と、谷沢は得意がっていた。
那は那破倫、華は華盛頓からとったといふことだらう。
東京タイムズ時代のことも詳しい。式場隆三郎には、はじめ連載小説を書いてもらはうと連絡したところ、創業費として大金を寄越してきたので、社長として遇することになった。岡村は公職追放の身。
私がいなくなると間もなく、僅かの社員が式場派とアンチ式場派の両派に分れて紛争を展開しだした。人間もメダカも同じだと誰かが言ったが、いつも群をなして行動していないと安心できないものと見える。政界でも各党が派閥をつくって内輪の争いを続けている。但し共産党と公明党だけは、それが表面に現れない。これは、専政者の意志に従わない者は派閥をつくる前に粛正されてしまうからであろう。
一人息子の旭児(あさひこ)が神経衰弱になったので式場に相談すると、「一時的のものだから、すぐ直りますよ」と気軽に引き受けるので、市川にある式場の病院に入院させた。病院は火事を起こして全焼し、旭児は一旦脱出したが同室の病人を助けるために戻って亡くなった。
母は息子のことをいくつも歌に詠んだ。「薔薇匂う園にかこまれあかつきの炎の中に散りし命よ」。
私が東京タイムズを出さなかったら、式場隆三郎に合わなかったら、独り子が、あんな惨めな最期をとげることもなかったであろうと思うのは、凡夫の浅はかというものであろうか。
後に、昭和四十年十月一日、私が自動車事故にあって、順天堂病院に入院、人事不省に陥っているとき、廊下を隔てた向う隣の病室で、式場は胃潰瘍で死亡した。ふしぎな廻り合せとでもいおうか。