天皇教の信者だった大達茂雄東京都長官

追想大達茂雄』(昭和31年11月刊)は大達茂雄伝記刊行会刊行の非売品。刊行会は警視庁警備部長室長気付になってゐる。
 大達は福井県知事、東京都長官、昭南(シンガポール)市長、満洲総務庁長、文部相などを歴任した凄い人。
 写真も多く、煙草をのんだり手をポケットに入れたりダンディだ。
 90人近くの有縁者が思ひ出を語ってゐる。有名人も多数。
安倍首相の父の安倍晋太郎は寄稿当時、毎日新聞政治部記者。大達が文相時代、文部省付きだった。大達は日教組と対決した。しかし言ひ分を聞かうと日教組大会に傍聴を申請したものの拒否された。「極東裁判は野蛮人の首祭りである」と言って、不信任案を出された。映画「二十四の瞳」を見て感激。「大達文相の目にも涙」と新聞に書かれたと追想してゐる。首相は大達のこと知ってゐるのかな。

 そのほか徳川夢声今村均、岡村寧次、滝川幸辰、唐沢俊樹と幅広い。
 満洲時代は軍部と対立して辞職した。
 秘書官だった佐枝常一によると、関東軍の理念と大達の「天皇教」が食違ったからだといふ。

先生は、その思想傾向から云えば、天皇中心主義の人であつた。勿論、日本人は、当時全部と云つていい位そうであつたが、先生は、特にそうであつた。若し天皇教と云う言葉が許されるなら、先生こそ真に天皇教の熱烈なる信者であつた。先生は、かんながらの道の信者であつた。今迄述べた親孝行と云い、至誠の人と云い、責任感の強い人と云い、熱心なる執務態度と云い、強い断行力と云い、其他凡てが、先生がかんながらの道の具現者であることを理解せざる限り納得出来ないのである。先生は、東京帝大に於いて筧先生の教えを受けその熱烈なる高弟であつた。しかし、此の事実を誇こらしげに自分から口にされる方ではなかつた。自分から吹聴されなければされぬ程、先生自己の骨となり、肉となり、先生の人格となつて、混然同化して居つたのである。(略)「そうね、僕の時代、法科は四年であつたが、先生に教を受けたのは、三年で行政法と法理学を教えてもらつた。僕は、むしろ勉強はしない方であつたが、最も愉快で興味のあつたのは、筧先生の時間であつた。筧先生の時間は、待ち遠い位であつた」 

 
 別の回想に、「談たまたま宗教に及んだところ、わたくしの宗教はいうなれば天皇教であると話しておられた。先生の天皇陛下に対するお気持には、特別に深いものがあつたように見受けられた」(安嶋弥「気はやさしくて力持ち」)とあるやうに、大達は天皇教の信者を自負してゐた。かういふ心緒の持ち主が東京のトップに立ってゐた。
 筧克彦についてはその「神がかり」を揶揄する言葉ばかり取り上げられ、かういふ声は中々知られない。
 大達の女婿が坂井時忠警察庁官房長。「筧先生は、人間は一人一人が神の分身である、人間は神を表現している(略)と説かれている。」「老齢益々御元気な先生は、『大達君の分身となつて、一人でも多くの国民が、その遺志を継ぎ、勇気を百倍して皇国の為に働いて行かねばならぬ』と叱咤激励して下さつた」と筧の言葉を留めてゐる。
 
 しかし今後の東京の首長には、大達のやうな人物はもう就きさうにない。