囚人も読んだ『教育勅語道話』

 『日新更張 回顧録』(昭和30年2月発行)を書いた石倉常吉は、鹿児島は内之浦の出身。明治17年8月生まれ。後妻に顕本法華宗の本多日生の長女、月子を迎へ、東京での隣家が井田磐楠だったりしたが、殆ど無名の人物。
 ところが読んでみると、本の外交を仕事にしてゐた人で、その苦労がわかって面白い。
 高崎正風が明治天皇から勅許と五万円の御下賜金をいただいて、教育勅語を広める一徳会といふのを主宰してゐた。その華族会館での講演を聞くと、いかにも心学道話体でわかりやすいので、ぜひ一般民衆にも浸透させたいと提案。高崎も賛成し、速記を取り、それを宮内省図書寮編纂官の神谷初之助にまとめさせ、高崎が添削した。
 題字を徳大寺実則侍従長からもらはうとしたがうまくいかず、東久世通禧伯に変更した。
 この『教育勅語道話』、初版五千部で売り出し、みな結構なものだとは言ふが、売れない。
 床次竹ニ郎内務省地方局長が以前、大隈重信の『国民読本』を青年団に大量に買はせたといふことを知り、床次に何度も接触。栗饅頭を上げたり夫人に会ったり延々六頁にわたって記録されてゐる。結局。

局長は、「一寸手洗いに」と立たれたが、退庁時で十分待てど二十分経つても復席されないから、秘書官に尋ねますと、秘書官は笑いながら、「局長はよくこういふことがあるのです。逃げられたのです」

 ひどい。
 沢山買ってくれたのは服部時計店服部金太郎の母が110部。
 更に大口は刑務所だった。泉ニ新熊司法省参事官から監獄局長に話が行って、大逆事件の折柄、教誨師の教材に困ってゐたので、大層結構だと評価された。そこで全教誨師どころか、日本の全囚人に読ませたいのだと希望を述べておいた。
 後日局長からの電話で、 

民間のものを官本として推薦するのは、此の本が始めです。こちらで推薦するから、あなたは発刊の趣旨を添えて一部宛全国六十何ヶ所、職員録を見て典獄宛てに郵送されると、注文は殺到するでしよう。

 破格の待遇だった。獄内は読書に適ふといふから、囚人の方が勅語に通じたことだらう。まるで悪人正機だ。
 特に小菅監獄は職員と刑房各300に一部づつ納入した。仙石学典獄は忠孝本義の人。官舎の自分の各部屋毎の襖に忠孝と書いてあった。
 それでニ版は5000部刷ったが余ってしまったといふ。

 販売に奇手は用いず、地道に鹿児島の先輩知己を頼って行ってゐる。やはりそれしかないのだなあ。