柳川平助「俺の同志は国体だけだ」

 続き。二・二六事件の野中四郎が質素について講話をして、明治天皇が夏でも冬服を着て、避暑も避寒もしなかったと例示してゐるのを見かけた柳川。「説明の内容も設例も注意を要する」と評した。野中にはどこが悪かったのかわからない。教育総監部発行のものにもさう書いてあるといふ。柳川は解説する。そんな話に感心するのは田舎者くらゐだ。「もし兵がそんなら夏服を召したり避暑をなさる今上陛下は質素でおわさぬかなどと答えたらどうなるか。至尊の御事は吾らが肉眼をもって見て御批判申し上げることは慎まなければならぬ」「夏、夏服をお召しになっても、避暑避寒を遊ばしても明治天皇様の御徳には少しも影響はない」。


 そんな柳川の心根が知られる発言がある。田所と小田村といふから、田所廣泰と小田村寅二郎のことであらう。二人の学生が尋ねてきたので、直言したところ、 

田所はけっきょくわからなかったらしく、「閣下が同志でなければ論駁しようと思うが遠慮する。」というから、「君達が俺に議論しようとしても歯は立たぬよ、しかし俺は君達の同志じゃない。俺の同志は国体だけだ、仲間がいなければ心淋しいような俺ではない」といってやった。
(p184)

 柳川の下には蓑田胸喜も三井甲之も飯野吉三郎も井上孚麿もやってきて談話してゐる。秦真次は、紙幣を廃止して忠義券を発行しなければならないと言ふ。井田磐楠の紹介で来た通信員には、国籍を蒙古にでも移してジンギスカンにでもなったらと言って、感心させて帰らせた。山根菊子も来た。

牛込のなんとか女史(山根菊子)といって女権運動などで活躍している人がやってきて、釈迦もキリストも皆日本で修行したのだ。キリストは垂仁天皇様からユダヤ国王のお墨附きを戴いたけれども、ユダヤ族が聴かないので弟を磔の身代りにしてキリストは日本にきて東北地方で百三歳まで生存した。猿田彦はすなわちこれである。キリストの遺跡は青森県にあり、釈迦の遺跡は佐渡にある云々というから、そんなことはほかの人からも聞いているが、高天原だけだって幾通りかの説があるように、決してそんなかんたんなものではないといったらえらく感激して、十分間ばかり瞑想したりして、自分は来させていただいてよかったといいながら喜んで帰った。神学校出身だそうだが、女権運動者には珍しい人だ。(p204〜205)

 これは興亜院長官時代の話。山根はどういふ伝手があったのか。それにしても「ほかの人からも聞いている」のか…。