霊仁王「角田清彦氏の至誠には心から感動」

 『正さねばならぬ美作の歴史』は美作後南朝正史研究会 霊仁王(こまひとおう)編著、発行は岡山市の流王農、発売は温羅書房。「謹呈 流王農」の署名と印。平成5年6月初版、平成10年11月2刷。昭和50年発行のものの新装版。写真が追加されてゐる。

 美作国、現在の岡山県にあったといふ後南朝の存在を論証しようとした書。熱意が余って分かりにくいところもあるが、系図などの資料が参考になる。

 「後水尾天皇御譲位の真相」は、正史では後水尾天皇は明正女帝に譲位されたことになってゐるが、実は美作国植月御所の高仁親王に譲位された。親王は高仁天皇として即位し、寛永4年を天晴と改元したのだといふ。灯篭に天晴と刻まれたといふ証拠写真も載せる。津山藩主の森忠政は、天皇即位式のために上洛したところ「桃之中江毒挿入」され毒殺されたといふ。高仁天皇廃帝とされた。

 「美作後南朝皇統と流王家」は、岡山県の流王農(りゅうおう・あつし)氏から預かった流王氏の系図を焼失してしまったが再製。流貴王の祖父は高福天皇、父は尚高親王。尚高親王は諱が信雅王。熊沢天皇系図には始祖を尚高親王としてゐるが、著者は両者の食ひ違ひを指摘する。

 流貴王の子孫が流王家として続き、流王といふ地名にも残ってゐる。流貴王生誕五二五年といふ墓誌のやうなものの写真があり、流貴王の略歴が読める。日付は平成3年なので旧版にはない写真。 

「徳守神社考」は津山の徳守神社の由来について。森忠政の使者だった清閑寺徳守が徳川の隠密に暗殺された。森が徳守の霊を祀って神社を建てたのだといふ。

 「其他の解明したい事柄」に角田清彦の「建白書」を紹介。写真2枚のほかに、内容を詳しく翻刻してゐる。海軍退役将校が南朝正統を主張し昭和維新の断行を訴へたもの。解説によれば、当時大本にゐた角田は憲兵隊から逃れて中国にわたった。その時、建白書を持って行き、終戦後にまた日本に持ち帰ったといふ。「角田清彦氏の至誠には心から感動し、今は亡き氏の霊に衷心から黙禱を捧げるものである」。