続き。『無聲觸鳴』には他に佐々醒雪が「上代史の研究に就て」を書いてゐる。古代や神代の歴史について、どのやうな態度で臨むべきかを論じてゐる。
人生は短い。人智には限りがある。宇宙のすべての秘密を知ることなどできるわけがない。それなのに無駄なあがきをして、狂ったやうに智識を得ようとする者たちがゐる。醒雪は彼らを狂奔の徒といふ。彼らは何事も理性で判断できるといふ。記紀の不思議な記述を冷笑し、荒唐無稽だといふ。
そんな国賊を敵視するのが憂世の士であり、国学者であり、神統家である。神道家ではなく神統家と表記してゐる。彼らは狂奔者が理性によって記紀を研究するのに反対し束縛しようとする。しかし世界の趨勢は止められない。醒雪の伯父の国学者、矢野玄道も怒り、泣き、憤り、病気になって亡くなった。醒雪は玄道の遺志を継がうと思ってゐる。その一方で、狂奔者と国学者たちの対立を和らげ、調和させることを決意する。
彼等の徒労と狂奔とを束縛せざるなり、彼等の理性を満足せしむるなり。
醒雪自身は神統の教へを信じる。これを心霊的信仰といってゐる。この信仰を伝道したい。しかし上代史の研究においては、この信仰だけで解釈すべきだといふ考へではない。理性的な見方も取り入れるべきだ。上代史には不可思議な部分もあれば、理性で解明できるところもある。理性を信じる者たちを束縛せず、その知識欲を満足させるべきだ。
深遠なる、而も謹厚なる国学者よ、彼の惑へる者、迷ふ者を憐み、彼の狂奔し徒労する者を導き、彼等が理性の進行を束縛する事なく、自ら進んで其帰着すべき処を示せ。
高天原など天上にないといはれても、八岐大蛇といふ蛇などゐないといはれても、そんなことは見解の相違にすぎない。わが国体はもっと偉大で、人間の理想を包容する大きなものだ。国学者は大きな心をもって、彼らの考へを受け入れてやるべきだ。
理性と狂奔といふのが現代ではなじみにくいが、理性をふりかざすことに熱狂する者、人間の理性のみを信じて人間以上のものを否定する者たち、といったところか。
狂奔者に歩み寄らうとした醒雪。冒頭では「智識を得んとして狂奔する」ともいってゐる。彼らのやうな者たちを非難する文章もある。雨森未孩が「読書弊」を載せてゐる。世には書籍があふれ、金と暇さへあれば学者になれる。飯を食ふ百科全書だと思へばよい。しかし彼らは自ら考へるといふことをしない。西洋の革命思想にかぶれ、西洋の政治書や経済書を読んで目前の問題に思ひが至らない。
旭城といふ人が「急々如律令」を書いてゐる。
近来雨と共に煩さく出で来るものは庭の雑草と青年者流の雑誌発行なり(略)空理空想の悪風を伝染せしむるに至ては其罪や大なり、吾輩は彼等を坑にし彼等の書を焼かんと欲す、
未熟な青年たちの思想は伝染病のやうなもので、その罪は大きい。本文にはないが小見出しには「始皇を地下に起さんと欲す」とある。秦の始皇帝を復活させ、もう一度焚書坑儒をするのだと青年文士たちを憎んでゐる。