三島助治「書物の価値は時局を超越する」

 いつの間にかはや九月。ぼちぼち読書をしようといふ声が大きくなって、いろんな人や団体がいろんな本を推薦する時節でせう。さういふお歴々は三島助治の文章を読んで何を思ふであらうか。
 三島助治『思想維新論』(国民政治研究所、昭和17年11月10日初版)の一章が「文協に寄す」。

出版物は鉄や小麦と同じやうな「物」ではない。その価値に於て特殊的なものであり、質的なものである。普遍的な、量的な物質ではないのである。それは「心」の所産であつて、鉄や小麦等の純然たる物質と同一に取扱はるべきものではないのである。機会主義的、画一主義的方法で出版物が統制されたら、必ずや国民の精神的文化的活動は圧迫されざるを得ないであらう。この出版物の特殊な精神的性質といふものを充分に把握してかゝらねば、出版統制の正しい運用は不可能なのである。

極端にいへば、印刷などはどうでもよいのである。われわれは自分にとつて充分に価値ある著作ならば、その印刷本が入手出来ない場合、往々筆写の労苦を払はねばならない。実際慎重な読書家の中で、最も愛惜され珍重される書物は、最高の印刷技術を用ゐた豪華本ではなくて、鉛筆の走り書きで出来た筆写本や、タイプや謄写刷の速製本である。

時局に迎合し便乗するするやうな傾向はむしろ排除する方が出版文化の健全な発展のために必要であらう。著作物の価値は一面に於て時代を超越するものである。真に価値ある書物は現代を益すると共に、百年の後にも亦よく人を動かすものでなくてはならない。

成程、著者の経歴がよく、文章がきれいで、印刷や校正が技術的にすぐれたものといつた標準で、多勢が寄集つて審議するならば、常識的に一応不可のない出版物を出すことが出来るかもしれないが、破格的に傑出した著作は、兎もすればかうした審議を通過しないのではないかと心配されるのである。格別の悪書もない代りに格別の良書もないといふことは、すなはち、文化の平板化である。平板化は固定化に通じ、固定化は退歩に通ずる。

 本トノ紐帯ハ推薦図書ノミニアラズ。