与謝野晶子のナチス焚書批判論

 『政界往来』第4巻第7号は昭和8年7月号。政界情報が中心だが評論や随筆も多い。
 タイトルには挙がってゐないが、この年に起こったナチス焚書について、いろんな人が話題にしてゐる。
 神近市子は「婦人界評論」で「人類の文化を破毀するもの」「全人類の進歩を阻害する挑戦」と批判。これまで日本の文壇は個人行動でバラバラだったが、一部の人は結束して抗議を申し送った。

こゝに少異をすてゝ、個々の感情を清算し、団結すべき機運がうごいたのであつた。

 これに対し戸川秋骨は「社会時評」の中で、真面目にしろ芝居にしろ「いづれにしても効果はないものだ」と、真正面から取り上げるものではないと冷ややか。

何百万の書を焚いたところで、言語は世界共通の今日だし活字は何時でも自由に用ひられる世の中だ。何故こんな事が恁うして問題となるのかそれが抑も可笑しい。

 戸川に似て、しかも詳しく論じてゐるのが与謝野晶子「学問の自由」。同じ号に載ってゐる、神近のナチス焚書批判とまるで対照的だ。

独逸が書物を焚き捨てたと云つて、遠方の日本までが憤慨するのは可笑しなことである。(略)秦の時代とちがひ、今は印刷術の進歩と大量な製本とに由つて書物は世界に普及してゐるから、一国の内で個人の所蔵するものまでを焼き捨てることが出来たとしても、価値のある書物なら世界が必ず保存し且つ普及させる。ヒツトラ内閣が図書館の書物を焚いたのに憤慨して、学問が滅びるやうに云つて騒ぐのは浅慮ではなからうか。

 2000年前の焚書坑儒とは時代が違ふ。今は書物も大量生産の時代だ。価値のあるものなら必ずどこかに残る。

学者もその自説を主張することが国民の幸福に資するのだと確信するなら穴埋めにされても悔いない覚悟を以て政治家に抗争するがよい。抗争は悪るいことでなく、世界の文化はすべて抗争の中に進展して行く。

 政治家軍人はもともと強権的に決まってゐる。それに潰されるくらゐの言論で本物といへるであらうか、と与謝野は疑問を呈す。

一人の教授が休職になつたり、二三の図書館の書物が焼かれたりしたからと云つて、学問の自由が蹂躪されたやうに思ふのは、一時の昂奮のために学問の価値を忘れた軽率な考へである。真の学問は決して滅びない。滅ぶ恐れのあるやうな学問は要するに学問の名に値しないものだ。

 神近と与謝野、どちらがファシストナチスの発想に近いであらうか。