山本悌二郎を推薦した小澤打魚

 『木堂雑誌』昭和10年四月号(第12巻第四号)を読んでゐたら、小澤打魚を見つけた。菜花野人こと山口四郎の記事「独居雑筆」より。菜花野人は『明徳論壇』にも寄稿してゐる。

 山本悌二郎氏が、政治家として今日の大成を見るに至つたのは、氏が独逸に留学した点から出発したものと思はれる。…私の老友に小澤打魚と云ふ人がある。徳富蘇峰氏と知己であつて、国民新聞の創立に参加したのであるが、山本氏とは同学の間柄であり、何んでも山本氏が十五六才の時、遊女行と云ふ一詩を作つた、それが非常に上手に出来てゐたので、小澤氏は此時その学才に感服し、それで品川弥二郎子に推挙し、独逸に留学せしむる事となり、月々三十円づつ三年間送金する約束が出来て其処で山本氏は東京を出発したのであると云ふ。此の事は最近小澤氏が、山本氏の手紙を私に見せて、親しく語つた処である。その小澤氏も、詩人として世間に知られて居り古典学者としても一家を成して居る人であるが、随分風変りの人であつて、山本氏が独逸から帰朝して後は、文通ばかりで、今日まで一度も訪問して面談せぬと云ふことである。


 詩文の才で遊学できたとは隔世の感がある。小澤打魚は内田良平ゴーストライターとも言はれた文筆の人。それにしても仕事は似てゐるのに、祐筆とゴーストライターでは天地の違いがある。