名前の由来‐武田信玄と鹿子木員信

 『星明』(戸定会報第十五号、赤星先生追悼号)』(千葉高等園芸学校戸定会編,昭和10年6月30日発行)は、赤星朝暉(あかほしともてる)千葉県立園芸専門学校長の追悼録。

 赤星の母方の叔父の辻敬之は書籍出版業の普及舎を経営してゐた。教科書を一手に販売し、赤星は辻家に寄宿して通学してゐた。後年の教科書疑獄事件についてはこれ以上の記載なし(森歓之助「赤星先生を偲びて」)。


 赤星の追悼文を寄せてゐるうちの一人、鹿子木彦三郎が鹿子木員信の兄に当たる。以前から父同士が親しく、本人同士は同じ明治九年に熊本から山梨に移住。徽典舘中学科では熊本風の兎狩りをするなど親しかった。

明治十四年三月、君の家庭には令弟朝晴君が生れ、其後三年を経て私の家にも令弟の員信が生れた、君の家で、武田晴信の「晴」の字を取りて朝晴と名づけられたから、令弟には宜く晴信の「信」の字を取りて鹿子木家伝統の首字「員」字に結び付けるべきだと主張し、此議容れられて員信と命名せられたやうなこともあつた。


 ウィキペディアでは未だに東京生まれになってゐるけれども、やはり山梨生まれの方がよいと思ふ。県の文学館では郷土の出身者として、三井甲之とともにこちらの資料も収集してほしい。

 武田信玄の俗名が晴信で、どちらにしても信の字が入ってゐる。一生付き合ふ名前のことなので、自意識への影響は小さくないのでは。宮本盛太郎が鹿子木と安部磯雄の研究書に「宗教的人間」と題した。鹿子木の名前の由来は宗教的ではなかったけれども、その後の軌跡は却って信の字に引き寄せられたものか。