山田新一郎宮司「東洋のムツソリニーたらんことを」

昭和8年発行の『中安翁追悼録』は中安信三郎大日本国粋会会長の追悼録。
晩年は京都に孝明天皇を祀る孝明神宮を造営しようと運動してゐた。会名の国粋といふのは杉浦重剛直々に命名されたものである。山田新一郎北野神社宮司が書いてゐる。

中安君といへば国粋会を思ひ、国粋会といへば中安君の国粋会とまでいはれた(略)
中安君の全生命とまでいはれた大日本国粋会の名称は杉浦先生の命名なりと。而して其の最初の機関雑誌たりし「侠」の題字は重剛先生の命名であり又其筆跡である。此点丈でも予は中安君を想ひ、国粋会には特別の懐かしみを感ぜずには居れない。
 予が杉浦先生の口から「国粋」の語を聞いたのは明治二十年前後からのことである。先生曰く「ナシヨナルテイ」の語は、昔から日本伝来の重要な思想であるが、昔の時代では。之れを八釜敷云ひ立てぬでも、国民皆持つて居るのである。故に之を言ひ顕はす適当の言葉はないのである。今この語を言ひ顕はせば「国体」とか「国粋」とでも言はふが、どうも適当の詳字がないと時々謂はれた。

 伊太利主義を唱へ、片ツ端から悪分子、腐敗分子を叩き潰し、世の中の腐敗と堕落を退治して伊太利の天地をひつくり返し、一国の救世主となつたムツソリニーを見よ。
 余は国粋会が東洋に於けるムツソリニーたらんことを切望する。一人のムツソリニーよりも万人集つて東洋のムツソリニたらんことを切望する。

巻頭写真、「中安先生と親交あつた先輩友人」(其四)は五人。池永浩久、牧野正博、横田永之助、大河内伝次郎早川雪洲が載ってゐる。しかし本文にも何所にも早川と中安との関係は書かれてゐない。今度早川雪洲の伝記がでるさうなが、中安とのつながりは書かれてゐなからう。

 あと堀川辰吉郎の名前が出てくるが写真もなく、あまり偉さうではない。よくて中堅といったところ。