水平線の果て‐西光萬吉と弓場睦義


 西光萬吉と言へば水平社宣言の起草者で、左の人たちから評価されてきた。著作集四巻のうち一巻はすべて転向したときのものだが、研究者の立場のせいか、どうもあまり触れられない。転向を論じるのはいつも左からばかりだ。

 石川準十郎が主宰してゐた日本国家社会主義中央機関誌『國社』の昭和13年4・5月号(第二巻第三号)は同誌の終刊号。通冊第11冊。表紙では6月10日印刷納本・同日発行。奥付では6月10日印刷の7月10日発行。読んでゐたら、西光の名が出てきた。


 「同志弓場睦義氏 朝鮮に活躍」に拠れば、西光は石川の大日本国家社会党奈良県支部創立者の一員だった。当時共に創立に関わったのが弓場睦義元奈良県国粋会幹事長。六尺近くの巨漢で、現在働き盛りの50歳。弓場の説によれば日本民族朝鮮民族とは元来同一系統の民族である。諸々の差別待遇を廃止し、真の平等一体にならねばらならないと主張し、南総督や小磯朝鮮軍司令官の支持諒解を得て「皇鮮会」を組織した。
 
  

余は主張するのである。この差別待遇をこの戦争を機会に断乎改めよ!と共に、鮮人壮丁をして進んで戦線に起たしめよ!然る時は、而て然る時にこそ、戦争を通じて、真に日鮮の心からの一体化、元の一体への還元が齎されるであらう、と。(弓場「朝鮮民族を共に戦線に起たしめよ」)

 これが達成されて初めて、真の同胞意識が体得されるといふ。

 弓場は黒龍会会員として、内田翁と共に朝満支に活躍。朝鮮婦人の妻との間に一男一女を設けた。娘は内地でこの一月に病死した。子息は母方の姓を継いでゐたが、父を慕ふあまりに裁判を起こして弓場姓に復し、朝鮮軍に志願。北支で活躍してゐる。
 かういふ背景があって、弓場の主張が生まれた。