西澤才吉「陰陽の真理を具体化したる電化事業」

 『陰陽』は陰陽士会編輯部発行、大正14年1月発行号が創刊号。約90ページ。易占者の機関誌で、松岡若翁理事長の日本陰陽士組合と佐藤了翁理事長の東京占業組合が大同団結して陰陽士会が発足した。その経緯や祝辞などが載ってゐる。創刊の名刺広告には新井石禅や大西良慶徳富蘇峰内田良平、柴田徳次郎らの名前もある。

 編輯兼印刷人の小林宜園が「天地の公道と大和民族」を巻頭に置いてゐる。明治天皇五箇条の御誓文で「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」と仰せになった。これをただ盲目的・信仰的に唱へるだけでいいのだらうか。科学的説明が必要である。それは陰と陽の理を根本とした易にほかならない。

易に於ては此太陽対地球、雄対雌、男対女等の二元作用に名づくるに陽と陰の辞句を以てした

 宇宙の成り立ちから男女の性質まで、陰陽によって説明をしてゐる。

 明星電機製作所主の西澤才吉が「陰陽の真理を具体化したる電化事業」を寄せてゐる。目次では陰陽道、本文では陰陽。西澤曰く、世界は何十もの元素で構成されてゐると考へられてきたが、ここに一大革新が起こった。元素よりももっと小さい電子の波動が熱を生み、熱が人間の生活を豊かにすることが明らかになってきた。電気を利用することにより天国的・極楽的世界が地上にもたらされた。

電気の作用こそ陰陽両儀の最も顕著なる具体化であり立証である。

 電気と陰陽の関係ははっきりしないが、電子の陰子と陽子が念頭にあったことが推測される。電化による天国的・極楽的世界の具体例を、夫婦の生活で説明してゐる。まづは電化前の時代。夫が目を覚ますと、女房の髪はぐちゃぐちゃ、口からヨダレを垂らしてゐる。水が冷たいので顔も洗はず目ヤニをつけたまま。夫が外出すると食器も洗はず安火炬燵にもぐったり井戸端会議をしたりで風呂の湯も沸かさない。これでは一家繁栄する筈がない。

 これが電化した家庭だったらどうなるか。夫より早く起きた妻は僅かの時間で湯を沸かし髪を調へ、雑巾がけもする。起きてきた夫はまことに心地よい。お湯で洗濯し、風呂とお茶で帰宅した夫をもてなすので、自然に夫の帰路の足も軽くなるといふもの。一家和合は一国安泰、電化は国家社会のための大事業となる。ここでの電気安火は夫の着替へを温め、食後の団欒のときにも用意される。電気火熨斗(アイロン)も夫の衣服のために活躍する。

 ここで奇異な感じがするのは、電化したあとの妻の起床時刻。電化して家事の時間が節約できたのだから、朝は遅くまで寝てゐられる筈。しかし妻は逆に、電化前よりも早く起きてゐるやうだ。なぜだらうか。恐らく次のやうな考へだらう。

 冷水のつらい家事から解放されて、湯が手軽に使へるやうになった。温かい湯で気持ちよく楽しく家事をすると、夫の機嫌もよい。ますます家事に力が入る。夫はますます仕事に励む。かうなると寝るよりも家事をしたほうがいい。電化によって、妻は家事をし、夫は仕事をするといふ分担がますます強くなる。夫の喜びが妻の喜びなのだから。西澤の「天国的・極楽的世界」とはこのやうな価値観に支へられてゐたのだらう。陰陽は世界万般の構成要素。電気も陰陽からなり、男女も陰陽の別に基づくのがあるべき姿。夫が家事をするなど、陰陽の真理を理解しない間違った考へだ。

 夫が家事をしないからといって、妻への愛情がないわけではない。夜に遊び歩かず、家で夫婦仲良く暮らすのは愛情あってこそ。

こんな真心の妻を外にして娼婦等に耽る男子があらば、夫れは所謂変態心理の持主で真人間ではない、精神病者か獣的動物である。

 裏表紙には明星電機製作所の広告が載ってゐる。電灯からコードを引いた電熱器とともに、女性がにっこり微笑んでゐる。

 

 

 

 

・『夜更かしの社会史 安眠と不眠の日本近現代』(吉川弘文館)拝読。江戸時代の夜なべの農作業から現代のポケモンスリープまで、眠りについての論文をまとめたもの。どれも面白かった。一番夢があるのは睡眠学習を論じたもの。勉強の大敵、睡眠を逆転の発想で味方にする。勉強するために眠るといふ驚天動地の夢の勉強法。怠惰のために燃やす情熱は錬金術を髣髴とさせる。文中に繰り返される(睡眠中こそ勉強の好機!)が力強い。「寝床を電化する―『電気あんか』の技術社会史」も良い。「所詮暖房器具でしょ…」といふ先入観を裏切り、電気あんかの登場と隆盛、そして衰退を描く一代記。平家の栄枯盛衰のドラマを見るやう。

 

メサーブ「神武天皇はアフガニスタンの皇子」

 『実話』は実話出版発行、昭和32年10月号が1巻4号。その中に「私は印度人の女占い師です」といふ記事がある。表紙、目次、グラビア、本文で文言が違ふが、ここでは目次から採る。彼女の名前はメサーブ・ベンチ・アブドロヒム。グラビアページにはメサーブが占ひをする様子も掲載されてゐる。玉子を立てたり火のついた蝋燭3本を口の中に入れたりする。

 家の前で撮られた写真から看板の文言も分かる。

妾は印度の易者です アラーの御力で皆様の手相を観て人生一般の運命お鑑定致します

 メサーブは大正3年2月、タイのバタニー生まれ。数へで44歳。アフガニスタン系のインド人で、熱心なフイフイ教徒。フイフイ教はイスラム教のこと。夫の瀬島正日呼が両親の反対にもかかはらず日本に連れてきた。昭和21年12月に来日し、長崎で運命鑑定をしてゐたが、長崎ではイスラム教徒が重視する土葬が許されないので上京した。「私は日本が大好きなのです」といふメサーブ。その理由は信仰の中にもあった。

神武天皇は、アフガニスタンの第七皇子だつたのです。それが、ナガスネヒコを退治するために、単身日本に渡つた。そして、日本全土を平げて、天皇になつたのです」

 だから2代目のスイジン天皇まで、天皇イスラム教徒だった。メサーブと天皇は同じ先祖を持ってゐるといふ。神武天皇のこともコーランに書いてあるといふ。時代が合はないので、歴史的には荒唐無稽な言ひ伝へだが、地理的にはタイやアフガニスタンまで広がる。

 コーランといへば大川周明なので、彼のことを知ってゐるかと記者が聞いてゐる。メサーブの評価は芳しくない。

「直接は知りませんが、あの人の『コーラン』は英訳本からの重訳で、間違いだらけですよ。あの人は、死んだらひどい罰を受けるでしよう」

 

 

 

水谷安子「そうだ狢に食べられて死のう」

 『夜明けを信じて』は水谷安子著、平成13年9月発行、出版社不明。正誤表付き。まえがき・第一章から第十五章・あとがきの198ページ。巻頭写真は8枚で親族の記念写真が多い。水谷自身は幼少期のものと小さな横顔のみ。

 大正2年、満州奉天生まれの著者の自分史。各章が数字だけなので分かりにくいが、読んでみると大正から終戦時までの半生が克明に記録されてゐる。親戚や無名の隣近所の人、同級生、社会主義運動の人々が登場する。

 父の佐藤才太郎は奉天薬種商をしてゐた。ペスト流行時にも商機を逃さなかった。

誰もが恐ろしくて外に出ず、堅く戸を締めて震えおののいているというのに、父はこの機会とばかりに外に飛び出し、各病院を廻り、薬を売り込んだのです。機を見るに敏で、危険も恐れず、勇猛果敢とは、実に男らしい人です。

「薬につきものの麻薬もどんどん扱って、ぼろ儲けもしています」。しかし大正4年11月に交通事故で死去。一家の生活は暗転し、日本での苦労の日々が始まる。転居先では暗くなって電気がつく前に帰宅するやうに言はれてゐたが、遊びに夢中で気が付いたら電気がついてゐた。そもそもまだ時計の見方も知らないほど幼かった。一度締め出され、後日また同じ失敗をしてしまった。もう死ぬしかないと思ひ詰めた。大人たちから以前、言ふことを聞かないとムジナに食べられるぞと脅されたことを思ひ出す。

そうだ狢に食べられて死のう、と決心しました。何でも、外にいれば夜中に狢が現れるに違いない、と実に幼児らしい発想です。

 他人の家の軒下で狢が来るのを待ってゐたら、その家の小母さんに発見された。学校や住居を転々とする。5、6年生のときはのちの大宅壮一夫人となる奥田昌先生に教はった。上京後は田中角栄も通った中央工学校で理数や英語、製図を学んだ。

無試験で卒業証書も要らない呑気な学校で、女学校卒で入学しました。当時左翼の人達が、いろいろ運動中に資格を得る必要で、この学校を卒業した人達も結構あることを後に知りました。

 この学校を卒業して就職したが、夫の水谷信雄が何かの集会に出席したことで逮捕された。安子も即日クビになった。もとの学校に再就職を頼むと、日産自動車を紹介されて採用された。学校では左翼の人達でもよく斡旋したやうだと記してゐる。

 戦時中は姉の不敬事件に連座した。

次第に激しくなる戦争を呪い、その戦争の大もとである天皇を呪い、天皇一家を殺しても飽き足らないように喋ったそうです。

「皇国思想のガリガリ」の知人にどうしてそんな本心を語ったのかと姉に聞くと、表向きは話を合はせるので気づかなかったのだといふ。夫もその仲間の左翼グループもつかまってゐる。南京虫が出るので部屋の中央で寝たなどと、安子も留置所での経験を述べてゐる。

 献呈の紙片には「突然の送本ですが拙い自分史をどうか御笑覧下さい」云々とある。

 

 

『神様の祀り方拝み方』500万部発行計画

 『神様の祀り方拝み方』は肇國神祇聯盟発行、昭和15年12月発行。32ページの小冊子。そのチラシを見てゐる。謄写版で、ところどころ見慣れない漢字の書き方をしてゐる。神棚は神柵になってゐる。普の字は元の字を訂正して横に書いてゐる。元の字は変の字と混同したやうに見える。初めからやり直すのが面倒だったのだらうか。終はりから3行前には用の字を2つ並べてゐる。2画目が丸くなってしまったのが気に入らなくて、角ばらせてもう一回書いたやうだ。「普及を図り」の図の字も簡略化されてゐる。囗の中に子の字のやうなものが入ってゐる。同じ字が「各種団躰(体)」のところにも見える。これでは図も団も同じ字になってしまふ。官大は官幣大社の略。鶴岡八幡宮は囗中。国幣中社の略。全国も全囗にしてゐるが、国家祭祀は囗家とは略してゐない。祭の字の上部が発のハツガシラだと思ってゐる節がある。新聞の聞の字が門に身みたいなものが入ってゐる。

 内容を見ると、1月初めから20日までで6万部を突破!!と大書して、「如何に本書が必要かを雄辯に物語る」と誇らしげな様子。さらに「日々注文殺倒(到)素晴しい大反響」。いの字が左右逆になってゐる。一大宣伝をなし、500万部発行を準備してゐるといふ。「まとまつた注文があると思ひます」と期待を込めてゐるが、その後どうなったのか。終戦までに達成できたのだらうか。左下の頒布規定を見ると、大判は1部15銭で500部75円まで定価通りだが、1000部だと定価150円のところ145円と割引になってゐる。しかも送料が本会負担で無料とお得。

 斯道宣布の聖業と商品販売の営利事業が入り混じってゐる。といふよりも聖俗一致の大事業といへる。83年前の今頃は大いに盛り上がったことだらう。味はひのある文面をずっと眺めてゐる。

 

衛藤雅「霊界生活では勉強に専念できる」

 『守護霊の研究  誰にも必ずついている』は衛藤雅(えとう・ただし)著、サンロード発行、平成3年1月発行。

 11章にわたり霊界のことを記したあと、付録として「著者自伝『満州そして軍神山での修業』」を載せてゐる。衛藤は明治38年4月、大分県生まれ。血盟団事件の指揮者となるが、これは一人一殺とは別で、終戦時に大陸でソ連軍宿舎を襲撃した事件。引き揚げて兄の旅館を手伝った。兄の衛藤三千雄は18歳年長。川面凡児の高弟で稜威会の布教師をしてゐた。雅は兄から薫陶を受け、招霊や振魂に励んだ。

 霊界の事情は、招いた霊が教へてくれる。紹介されてゐる守護霊は江戸時代の武士など。これは霊界でも修業をする必要があり、われわれの守護霊になるためにはそれだけの年月がかかるため。現界のわれれは振魂で周波数を合はせて霊と交信する。守護霊は指導霊の力を借りて現界の悩みを解決してくれる。

 徳川時代の霊が現代の知識を持ってゐる筈がないので、霊界の話など創作であるといふ投書が来たが、これには次のやうに反論できる。霊界では学問に専念でき、何百年も研究が進展する。名医も霊界にやってくる。徳川時代の漢方だけでなく、西洋の医学も学んでゐる。現界の数十年しか学べない医者よりもはるかに優ってゐるのだといふ。

 霊界には医学だけでなく、さまざまな研究団体がある。それが類魂団。

 類魂団というのは同一趣味をもつ霊の集団ですから、歌、舞踊、音楽、書画、医学、文学などすべてに研究集団があり、勉強に余念がないのです。霊界生活では衣・食・住の心配がいらないので、勉強に専念できるのですから、その研究の深さが想像されます。

 このやうな専門家集団があり、われわれに有益な助言をしてくれるのだ。降霊の実例として、徳川家光の時代に生きた松平勝親の話が出てくる。岡崎の伊賀八幡宮宮司をしてゐて、霊界では天文学を研究してゐる。松平は現在の神社界を憂へ、本来の神道がいかに優れてゐるかを力説する。

 現在の神社仏閣は賽銭または寄付を要求し、おみくじを売り、神社を表面に置いて営利事業に没頭している。嘆かわしいことである。(略)

 神道がいかに清く、いかに美しく、いかに明るく、いかに楽しく秀でているかを、他教に比較して説けば判然とするのである。神道こそ、大宇宙の神髄であり、源泉である。世界各国の人類が神道を奉ずるようになったとき、神の声を聞き、世界平和は訪れる。

 神社に職を奉ずるすべての神官は、現在のごとく神社の経営に寝食を消費せず、惰眠を貪らずに古神道を研究して、声高らかに世界の人たちに日本神道を伝え、一日も早く世界平和が訪れるように努力してほしい。

 そのほか、滝沢馬琴が書いたといふ長寿の古文書、登山家が危難を逃れた辟邪の符の実物が載ってゐる。辟邪の符には短い象の鼻のやうなものを持った動物が描かれてゐる。

 

 

関東大震災から立ち上がった文雅堂の所国松

 「成功者立志編 附自力甦生道』は帝国勤倹奨励会発行、昭和8年5月発行。渋沢栄一ら立志伝中の人物22人を取り上げたもの。星一の見出しは「昔は貧乏の古本屋」。大阪朝日新聞の高橋健三や編集部員から300冊を得て、米国留学費にした。

 全体にぼんやりしたつくりで、本文では「明治大正 成功者立志伝」。これは30ページで、次に関東大震災の復興記「焦土より奮ひ立つ」が43ページあり、こちらの方が長い。さらに貯蓄奨励の文集が15ページついてゐる。

 「焦土より奮ひ立つ」は逸話集で、菓子の清月堂主人、水原嘉兵衛が京橋区役所に1万円寄付した話、越中屋米店の山崎松壽の母が震災後、へそくり1300円を子供に提供した話など20編。

 その中に「裸一貫から三階建 苦心の四十万円を煙にして復興した本屋さん」がある。文雅堂書店の所国松(当時39)に取材したもの。神保町から飯田町に引っ越して数日後に震災に遭遇した。大阪の兄の1000円と親族の見舞金を合はせた2000円で復興。7年間で3階建ての印刷工場に50余人の職工を抱へるまでになったといふ。

 兄の名は定一郎とあるが、『出版人物辞典』には所貞一郎として立項されてゐる。

 

 

・拙詠3首を得たり。

あらたまのとしをむかへてゆたかなるこゝろつかのまゆふになゐふる 

あしたにはよのたひらぎをいのりしをひのかたぶきてなゐのおそへる

よもすがらよせてはかへすみゝのそこよいおとしをとはづみたるこゑ

神様ノ無イ村をめぐって

 お正月だから神様が出てくる本がいいな。『故事物語 御国自慢ト負ケジ魂』は著者不明、出版社不明、作成年不明。昭和10年の日付の記事がある。

 文章はすべて直筆で、カナ文字ルビ付き。文字の上に訂正の線が引いてあったりする。手描きの素朴な絵は着色されてゐる。七福神の由来や「背水の陣」「いざ鎌倉」の言葉の意味などが雑多に書かれてゐる。力作だが現代人が読んで特に面白味があるといふものではない。

 その中の一編、「神様ノ無イ村」だけが異彩を放ってゐる。村長と奥さんが寝てゐると、大きな物音がした。庭を確認して戻って来た村長は、竹を縛ってゐた縄が切れただけで怪しいことはない、と言った。奥さんは、村長の体から「妙ナ冷タサト腥サ」を感じた。その後も村長は相変はらず親切だった。ただ神様のことが大嫌ひで、神様のことを聞くと不機嫌になった。

 ある年、東の国から西の国へ神様がやって来た。村長は病人のやうに閉ぢ籠もってしまった。代はりに奥さんが神様を出迎へた。神様は異様な空気を感じ、「コノ村ハ今恐ロシイ魔物ニ占領サレテイル」と、村長の家に案内させた。神様が大音声を発すると、それは正体を現し、村長を吞み込んで化けてゐたことを白状した。魔物は神様によって、甕の中に封じられてしまった。

 本編からは、特異な点が少なくとも2つ挙げられる。1つは異変の夜ののちの村長の様子。村長は今までと違った田畑の耕し方などを村人に教へた。収穫は2倍にも3倍にもなった。村長さんの薬はただ一服で病人が即座に治った。村人は生神様のやうに敬ひ心服した。決して疫病がはやったり天変地異の災ひが起こったりしたわけではない。村人は村長が居なくなってしまって悲しんだことだらう。世の常ならずすぐれたるものとはかういふものだらう。

 2つ目は文字通り「神様ノ無イ村」にある。魔物は神様によって封じられた。「コレヲ俺ノ仮屋ノ下へ埋メテ了フガヨロシイ」。そのあとはどうなったか。東から来た神様を祀る神社を建てたといふなら分かりやすい。この一編は神社の由来を書き残し、後世に伝へるためのものだといふことになる。しかしさうではない。村には神社はなく、鳥居一つ建てない。神様の社も村長さんのための祠もないのだ。

 本編には明らかな固有名詞が出てこない。外国の翻訳や翻案だとしても通じるくらゐだ。村の名前でさへ「神様ノ無イ村」「神無シノ村トイフ村」。これでは具体的にどこの地名だか分からない。あるいはまったくの作り話で、だから名前も地名もないのかもしれない。さうでなければ、本当にあった出来事が長い時間をかけて伝へられ、その間に具体的な名前が忘れられてしまったのかもしれない。