明治神宮への散歩を欠かさない税所弘

 『うつ病は神がくれたメッセージ』は税所弘著、平成2年10月初版、12月で3版。リヨン社発行、二見書房発売。デザイン森下年昭、イラスト小野みき。

 著者は昭和26年生まれ。著者略歴によれば宇多天皇の血筋を引くといふ。東西両医学を学ぶ。税所一族の東京本家。毎日午前3時に起床し、代官山から明治神宮まで往復90分の散歩を日課にしてゐる。

 ところが「ま・え・が・き」(目次では「はしがき」)の最後の署名部分には「平成二年八月二七日 午前二時四五分 明治神宮にて 著者」と記されてゐる。明治神宮まで片道45分かかるとして、これでは午前2時には起きることになってしまふ。早朝といふより深夜だ。3時に起きて、3時45分に明治神宮に着いたといふなら辻褄が合ふので、誤記ではないだらうか。

 3時起きでも早すぎるとは思ふが、とにかく著者は早起きを奨励する。著者の肩書は「早起き心身医学研究所所長」。本書は著者による税所式健康法で、うつを治す方法を教へるもの。実践は早起き、散歩、体操、誓(うけ)ひ、の4つの柱からなる。目を引くのは誓ひだらう。解説には

天照皇大神が天の岩戸にかくれたときに、須佐之男の命が開くように懇願し、天照皇大神に誓約したといわれていますが、このときに「誓ひ」という言葉によって表現されています。

 日本書紀をだいぶ端折ってゐるし、これだと何を誓約したのかよくわからない。著者がうつ病のために取り入れた誓ひとは、自分の目標や決意をノートに書くこと。誓ひノートに毎日目標を書くことで、決意が固まってゆくのだといふ。誓ひの対象は神でも仏でもなく自分自身とある。誓ひの場所は、自分が神聖な気持ちになれる場所ならどこでもよい。あれば神棚や仏壇、なければ太陽に向かってでもよい。感謝の言葉もお父さん、お母さん、家族などに対するもので、神様といふ文言は出てこない。このあたり、誓ひといひながら実際は崇敬心、宗教心といったところまでは求められてゐない。

 そもそも書名に『神がくれたメッセージ』とあるものの、神についてもメッセージについても言及がない。うつ病患者の症例や発症原因、なりやすい性格などを紹介し、治し方が解説されてゐる。

 著者はヨーガの専門家、佐保田鶴治大阪大学名誉教授に師事してゐて、体操もヨーガを取り入れてゐる。ヨーガや体操で治すといってもよささうなところを、神や誓ひなど神道的なことを前面に出してうつを治さうとしてゐる。

 

・『まんわがでわかる自律神経の整え方』。大きな帯だなと思ったら帯ではなく、帯のやうなデザインになってゐる。累計20万部ロングセラー限定カバー。その下には通常のカバーがあり、二重のカバーになってゐる。

 

 










金子三四郎「姿勢こそ至誠である」

 『汝の姿勢を見よ』は金子三四郎著、金子事務所発行、昭和11年5月発行。序に曰く。

私は一介の実業家であるが、宇宙人生の原理及び国体の本義について特異の信念を持ち、曽て旧著に於て大嘗祭戴冠式との異同、菊花御紋章の神秘的由来、古事記と創世記との思想的異同につき卑見を発表して識者の批判を求めた(略)私は文章家でないのみならず、日夜国油の開発に鋭意して極度に多忙な生活を営んでゐる

 石油事業を営みながら、宇宙の仕組みや日本の国体について考へてゐる。宗教についても論じる。怪教や邪教が流行するのは、仏教やキリスト教が抽象的な観念論に堕してゐるからだ。「惟神の道」といふのも内容空虚だ。「さうなつてゐると高圧的に断定するのみである。これでは到底人心を満たすべきものではない」。生長の家についても、自己がないから病気もないといふのは虚無思想だと批判する。そこで著者は、人の姿勢にこそ真理があると指摘する。

一身の姿勢に至つては絶対不動のものである。故に、それは絶対不動の真理である。自己の姿勢といふものは、人の作つた画像や木像とは違つて、天の与へた実物である。此の天成の姿勢にこそは天地の大道が具はつてゐる。

 天御中主神天照大御神―世々の天皇―各自の祖先―各自の父母―各自の姿勢。

 姿勢については一枚の紙を比喩にして論じる。

姿勢は単なる物質でもなく、また単なる観念でもない。例へば、一枚の紙は、その半面を表といひ、その半面を裏といひ、全面を紙といふが如く、姿勢は一面物質とも見え、一面精神とも見えるが、しかし、その実相に於ては、その全面が姿勢である。

単なる物質でもなく単なる観念でもないもの、両方の面を持つものこそ姿勢だと論じ、物心一如の境地、仏教の中道のやうなものである、姿勢こそ至誠であるといふ。

 後半は旧著に対する諸家の返信。荒木貞夫、山田霊林、加藤玄智らが御礼や感想を寄せてゐる。浅田一は「姿勢即至誠」などの「御造語も面白く候」。剣道や座禅にも通じるものがあると共感してゐる。

田崎仁義「議場はすなはち高天原の天の安河原である」

 『講演時報』は時事通信社発行、第20年第706輯は昭和18年10月5日発行。旬刊で月3回発行してゐる。この号は全24ページのうち23ページと、ほぼ一冊すべて田崎仁義の「国難に処する敬神生活」に充てられてゐる。

 田崎は大阪商科大学教授などを務めた経済学博士。当時の肩書は大政翼賛会大阪府支部常務委員、社会経済史学会顧問、日本農道協会理事、皇道日本協会幹事。

 はじめに明治天皇のご敬神や頭山翁の明治神宮参拝に触れて、頭山翁を模範としてわれわれも実践したい、と感銘を受けてゐる。参拝の様子の引用元は藤本尚則『頭山精神』。

 伊勢神宮など参拝者が増えたのはいいが、若い人や知識人はおしゃべりをしたりして、態度がよろしくない。参道の左を歩くべきだといふことも知らない。これは学校教育の怠慢だと憂へてゐる。

 神棚についても不満を列挙する。日本家屋は床の間など寺院の様式が元になってゐて、これでは敬神の念が養はれない。会社や工場に神棚があるところも少ない。日本人であれば仏教徒キリスト教徒もイスラム教徒も神棚を奉斎するのが当然だと説く。

 議会も不十分だ。開院式での天皇陛下行幸だけでなく、貴衆両院に神殿をもうけるべきだ。

さうして議員は議場に行つたならば、先づ禊ぎの部屋に行き、着物を脱ぎ捨てゝ禊ぎをしてから、着物を着替へて、議場はすなはち高天原の天の安河原であつて、議員はそこに神集ひに集ひ給ふ神々が神議りに議るのであるとの観念をもつて会議に与かるやうにしたい、

 国会議事堂の議場には高天原のごとく、身も心もきれいにして臨むべきだと訴へる。

 神職の待遇を改善すべきだといふことも忘れない。

神社のお守りをする神主さんの生活も相当に立ち行き、安んじて神職に奉公出来るやうにしてあげなければならぬ、

 昔は氏子が収穫物を神社にお供へし、神主はそのお下がりをもらってゐた。しかしその風習も廃れ、生活が不安定で、神主のなり手が少なくなってきた。寺院ではそんなことはない。神主が生活に困らないやうにするためにも、初月給の一部を神様にささげる。毎月ならなほ良い、などと、神主の生活安定策を提案してゐる。

 

 

 

・ぱらのまの5巻、店頭の100円均一で古い時刻表を買ふ話が出てくる。文学書とか貴重な本ではなくても、その人にとっては掘り出し物、といふのがいい。古本屋かリサイクルショップか分からないが、ほかの本は家庭の医学とか古いパソコン本とか、いかにもありさうな書名が見える。その時刻表を読み込んで昔に思ひを馳せるのにまるまる一話をつかひ、次の話にもつながってゆく。

 

 

高野佐三郎・高野泰正共著『剣の気魄』を買った染谷常雄

 『剣の気魄』は高野佐三郎・高野泰正共著、協同公社出版部、昭和17年11月発行。手元のものは18年2月の再版。

 17年6月の序は高野靖斎とあるので、佐三郎のものとわかる。前年12月の開戦以来の戦果を特筆する。

日本天皇は世界人類の王者として君臨せんが為めの、悠遠なる正神界の御経綸の発動なのである(略)。

 歪める米英が世界の実権を捨て 日本天皇が新世界の建設を終る迄はこの世界戦争が終止しないのであります。

天皇が世界人類の上に君臨するための戦争なのだと確信してゐる。全8章のうち第5章が「剣道の極意」で、「剣道即神道」「神としての天皇」など、日本神話から説き起こして剣道の教学を論じてゐる。序にあるやうな世界統治者としての天皇観は、高野が自身で編み出したものではなささう。

隠れたる古神道霊学の権威、我が友清歓真先生の多年赤魔叫喚の中にあつて渇破せられたるところを記述して、「剣道は神道なり」の理を述べたいと思ひます。

 友清の霊学、神道論を引用してゐる。ギリシャやローマにも「神社マガイ」のものはあるがそれは残骸で、日本のやうに神話由来の神社が現在でも信仰されてゐるところが尊いのだ、と優劣を論じる。神秘自在の神々も天孫降臨ののちは普通人のやうに暮らすといふカミ観、頭山翁の「神武天皇以来、国民が命を捨てゝ働かなければならぬ時は今の時だ」といふ発言なども、友清に同じ文章がある。高野が友清に共感し傾倒したことがうかがはれる。

 なほ手元の本には最後に旧蔵者の書き込みが沢山ある。「剣道修業」「千葉県東葛飾群」などとともに、昭和19年5月11日に三好屋で求めたことが記される。このとき中学2年生だった染谷常雄はのちに東京大の名誉教授になってゐる。住所などからも同一人物だらう。書き込みはここだけで、本文にはない。染谷は多感な時期にこれを読んで、どんな感想を持ったのだらうか。

 

『博物館の少女』に出てくる国家神道

 『博物館の少女 怪異研究事始め』富安陽子著、偕成社、令和3年12月発行、を拝読しました。舞台は明治16年の東京。大阪から上京した古物商の娘、花岡イカルが偶然と運命に導かれて上野の博物館で手伝ひをすることになり、台帳と実物を調査。黒手匣がなくなってゐることがわかり、その謎に迫る、といふ筋立てになってゐます。

 電話もスマホもないので、すれ違ひや行き違ひでドラマが生まれ、人との出会ひにつながってゆきます。イカルが単身で東京に来るので、不案内な場所での戸惑ひ、友達を得た喜びなどに感情移入して読み進むことができます。事件の追跡を描くところも、偶然の発見や意外な視点などの見せ方が巧みで、最後まで息もつかせぬ面白さです。

 妖怪や幽霊がばんばん出てくるのではありませんが、謎解きを楽しめる趣向になってゐます。目次も挿し絵もないので、先の展開を予想することはできません。

 ただ4つ折りで両面カラーの一枚紙が封入されてゐて、これで想像を膨らませることができます。用語解説は馬車鉄道、河鍋暁斎寛永寺など。おもな登場人物のイラストも描かれてゐて、イカルは腕まくりをしてやる気に満ちた13歳。織田賢司は織田信長の子孫で実在の人物。博物館勤務。杖を体の前で握り、よく見ると片眉を上げて睨んでゐます。田中芳男は博物館2代目館長で実在の人物。洋服で懐中時計を見てゐます。アキラは織田のもとで働く奉公人。植木屋のやうな袢纏を着てゐます。髪はボサボサ。河鍋トヨはイカルの親戚の15歳。河鍋暁斎の娘。絵筆を口に当てて思案顔です。鍾馗様(本文中では鐘馗様)を描いてるのでせうか。

 登場人物5人中3人が実在の人物となってゐます。

 裏面が「博物館の少女マップ」で、明治16年の上野周辺のイラスト地図。東京の地理に疎くても、これで位置関係がわかります。寛永寺のところは卍マークではなく神社の鳥居になってゐます。 

 新刊紹介などの冊子と違って本の内容と関はる印刷物なので、本と一体にして編集してもよかったかもしれませんが、手間や製作費のこともあるでせう。

 読み進めていくと、中盤の黒手匣の由来についてのところで、国家神道といふ言葉が出てきました。主人公と織田賢司が、国家神道の話をしてゐました。黒手匣ははじめ、宣教使の男が持ってゐたのです。宣教使をキリスト教徒のことと誤解するイカル。それもその筈センケウシといへば宣教師でキリスト教を布教する人のこと。しかしこの場面の宣教使は「国家神道」を広めるため、ごく短期間置かれた役職のことと説明されます。「国家神道?」と、ぽかんとするイカルに、物知りの織田が解説してくれます。

「…危機感をいだいた明治政府は、対抗手段として神道の国教化を推し進めようとしたのだ。神道といっても、お稲荷さんや八幡さんを祀れというのではないぞ。『古事記』や『日本書紀』に登場する、いわゆる皇祖神と呼ばれる神々だけを祀るように指導するのが、宣教使の仕事だったのだ」

 宣教使の活動は無茶な政策だったので、明治初期で廃止された、とも教へてゐます。

 この物語の舞台は明治16年。その時点で、国家神道はかつて失敗した政策として、忘れ去られたものとされてゐます。靖国神社は明治2年創建ですが、日清戦争日露戦争も始まってゐないこの時点では、国家神道の神社ではないやうです。尤も現在に至るまで皇祖神は祀られてゐないのですが。

 それとも一旦忘れられた国家神道がこのあと、いつかの時点で復活する、といふ世界観なのかもしれません。

 なによりも、織田もイカルも、「国家神道」といふ言葉を口にしてゐるのが注目です。国家神道の用例は明治後半にならなければ出てきません。作り話だといってしまへばそれまでですが、明治16年時点での用例としては不思議です。

 国家神道まぼろしといふのはこんなところにも現れるのかと思ったことでした。

 

 

 

野原剛堂が世話をした富田弥平と家族たち

 続き。『随筆 地方記者の生涯』には地元秩父出身の議員、荒舩清十郎、疎開に来た彫刻家、北村西望との関はりも記される。しかしここで特に注目するのは、富田弥平に関する記述。

彼は学校卒業後大隅公爵の用心棒となり或は台湾総督田健次郎の食客となり後大化会に出入して岩田会長と交り尊猶社の棟梁北一輝と深く交り中野正剛三木武吉小島七郎等とも相知り憂国概世の志士型に成長したのであった。

 誤字が多いが、大隈重信の用心棒を務め、田健治郎の食客のあと大化会の岩田富美夫、猶存社北一輝らと交はったなどと紹介されてゐる。大化会の関係者としては岩田、清水行之助、寺田稲次郎の履歴は知られてゐるが、富田弥平のことはこの本が詳しい。

 富田は柔道家の気楽流師範、関根幸作の高弟。17歳でアメリカに密航しようとして失敗。次に上海から満洲に入ったが帰国させられた。早稲田大法学部専科生となり、嘉納治五郎門下として柔道に励んだ。講道館五段となり、憲政会の院外団として全国各地に出張した。帝国通信社長の職を三木武吉から受け継ぎ、社運を回復させた。

 戦時中は野原が世話をして埼北自動車労務係とさせ、戦後は「手当り次第にアレヤコレヤと奔走」するも病死した。葬儀には御手洗辰雄も来た。

 著者の野原は、弟の富田治三郎の面倒を見てゐた。治三郎は雲取山の小屋番となり、雲取仙人と呼ばれた。

 弥平の没後、未亡人となった春枝。恋愛結婚で、源氏物語を愛読し、近世百科全書を購読する知識人でもあった。ひさごといふ料亭を開き、野原は庭に苔を生やすとよいとアドバイスをするなど、経営に協力した。繁々と料亭に通ふので、愛人と疑はれた。富田の長男は類人猿の研究をしてゐるといふ。

 野原は青年時代、高野佐三郎の九段の剣道道場に通ってゐて、江連力一郎が熱心だったとか、高野の目を盗んで女を買ひに行ったとか、明信館の様子がわかる。

 

 

 

野原剛堂が信奉した行者、村松健治

 『随筆 地方記者の生涯』は野原剛堂著、発行者不明、昭和44年12月発行。本名は野原広仲。明治21年12月生まれ。大正3年4月から埼玉新聞秩父支社長を務め、朝日新聞産経新聞などの通信員も兼務した。

 雑誌の埼玉民論、大秩父などを発行し、秩父に密着してゐた。政界にも知己が多く、本書には秩父を舞台にした事件や政争、自身の生ひ立ちなどが綴られてゐる。取材のため、花柳街に通ってゐた。

 街には私のパトロン的財伐があり何等かの理由で金は遣ふだけ出て来るのであった。

 花柳界には常に大小の事件が頻発して私の力を頼ることが多いのである。傷害事件や女の逃走其の他数限りなくあった。

 深夜のパトロールで一つや二つの事件のないことは珍しいのであった。

 新聞種は女の許に眠りながらつかまえられるのであった。

 花柳界即事件の温床であり即新聞記事特ダネの発祥地であった。

 

  後藤文夫内相による新聞関係者一斉取締前には、多数のゴロがゐたといふ。

微々たる地方新聞は全国各都市に発生して所謂ゴロの輩が街に横行闊歩して言論自由をタテに恐喝の犯行が日々行はれて良識ある人々からダカツの如くキラワレたんであった。

 野原も取締のため一時、保険の外交員に転身してゐる。「老後の私生活」の項では、昭和40年時点の日常を描き、家の周囲を掃除するとか作る側の気持ちで新聞を読んでゐるとか、老齢になっても忙しい。その次の「理想と現実」に、日本の理想を思ひ描く。

私はイツモ大きな理想像を頭の中に画いて居る。日本は神国神政でなければならない、(略)コレを毎朝天照皇大神の御前に祈誓願いたし同時に其の行動隊の兵士としての直接行動に終始一貫し共産党社会党の虫けら共のビラ一枚と雖見過すことなく電柱からムシリ取り断乎として排撃の矢面に立って居る

 ビラを剥がすのも掃除の一環なのだらう。

 野原が信奉した人物として、村松健治といふ行者が紹介されてゐる。三峯神社で日本神国神教立国の啓示を受けて講演。野原は会場を貸したり新聞記事にしたりして協力した。村松東条英機の進言役として国政に携はり、「日本に預言者あり」と称賛された。頭山翁は「村松ほどの熱烈な愛国者が十人居ればコレ程日本はヒドクならなかった」と断言した。別の個所では「三人あれば」ともある。後藤内相が伊勢神宮を参拝したときは禊を指導した。戦後も明治神宮の伊達巽の許を訪れたりしてゐる。続く。