野原剛堂が信奉した行者、村松健治

 『随筆 地方記者の生涯』は野原剛堂著、発行者不明、昭和44年12月発行。本名は野原広仲。明治21年12月生まれ。大正3年4月から埼玉新聞秩父支社長を務め、朝日新聞産経新聞などの通信員も兼務した。

 雑誌の埼玉民論、大秩父などを発行し、秩父に密着してゐた。政界にも知己が多く、本書には秩父を舞台にした事件や政争、自身の生ひ立ちなどが綴られてゐる。取材のため、花柳街に通ってゐた。

 街には私のパトロン的財伐があり何等かの理由で金は遣ふだけ出て来るのであった。

 花柳界には常に大小の事件が頻発して私の力を頼ることが多いのである。傷害事件や女の逃走其の他数限りなくあった。

 深夜のパトロールで一つや二つの事件のないことは珍しいのであった。

 新聞種は女の許に眠りながらつかまえられるのであった。

 花柳界即事件の温床であり即新聞記事特ダネの発祥地であった。

 

  後藤文夫内相による新聞関係者一斉取締前には、多数のゴロがゐたといふ。

微々たる地方新聞は全国各都市に発生して所謂ゴロの輩が街に横行闊歩して言論自由をタテに恐喝の犯行が日々行はれて良識ある人々からダカツの如くキラワレたんであった。

 野原も取締のため一時、保険の外交員に転身してゐる。「老後の私生活」の項では、昭和40年時点の日常を描き、家の周囲を掃除するとか作る側の気持ちで新聞を読んでゐるとか、老齢になっても忙しい。その次の「理想と現実」に、日本の理想を思ひ描く。

私はイツモ大きな理想像を頭の中に画いて居る。日本は神国神政でなければならない、(略)コレを毎朝天照皇大神の御前に祈誓願いたし同時に其の行動隊の兵士としての直接行動に終始一貫し共産党社会党の虫けら共のビラ一枚と雖見過すことなく電柱からムシリ取り断乎として排撃の矢面に立って居る

 ビラを剥がすのも掃除の一環なのだらう。

 野原が信奉した人物として、村松健治といふ行者が紹介されてゐる。三峯神社で日本神国神教立国の啓示を受けて講演。野原は会場を貸したり新聞記事にしたりして協力した。村松東条英機の進言役として国政に携はり、「日本に預言者あり」と称賛された。頭山翁は「村松ほどの熱烈な愛国者が十人居ればコレ程日本はヒドクならなかった」と断言した。別の個所では「三人あれば」ともある。後藤内相が伊勢神宮を参拝したときは禊を指導した。戦後も明治神宮の伊達巽の許を訪れたりしてゐる。続く。