萬朝報の社長就任の話があった尾津喜之助

 週刊サンケイ昭和28年3月15日号に、「新宿藪の中 駈出し記者の手帳 紙の弾丸乱れ飛ぶ山手界隈」といふ記事がある。記事名だけではわからないが、これは尾津喜之助と新聞にまつはるもの。

 尾津の竜宮マートが建築基準法違反だとして、山の手新聞(社長・小田ミツ、会長・小田天界)が問題にした。これに対抗し尾津側は「社会浄化運動同人会報」を発行。紙の戦争が勃発した。山の手新聞は部数が増加し、週5日刊行を毎日発行にするのだといふ。

  尾津は歴史ある萬朝報の社長に就任し、就任挨拶の葉書も印刷した。萬朝報は昭和15年になくなったとされてゐるが、実は戦後も発行されてゐた。しかし経営難で旬刊なので、尾津の力で日刊にするのだといふ。尾津と交渉した河野幸之助社長の談話もあり、確かに社長就任の話はあったが、尾津が人事・編集・経営の権利すべてを要求したため、立ち消えになったと言ってゐる。

 尾津の談話も取ってゐて、鍋山貞親主筆に迎へる予定だった。ところが勝手に挨拶の葉書を印刷したり、多額の現金を要求したりするので破談になった、河野は稀代の詐欺師だと憤慨してゐる。

 

スミスの飛行機への体当たりを夢想した渡邊貴知郎

 『日米の運命』は渡邊貴知郎、大正14年2月、対米国民同志会出版部発行。渡邊は同会会長で前萬朝報言論記者。

 言論記者といふのは馴染みがないが、論説委員のやうなものだらうか。黒岩周六社長の秘書的なことをしてゐた。その時は「天下の国士団体諸君に応接間に於て寄付金を手渡した」と、寄付金を渡す仕事をしてゐた。それが同志会の会長になってからは、富豪たちに援助を要求する側になった。

けれど私は主義として直接行動は絶対に避けます。朝日平吾とは成りません。彼等わからず屋富豪と命のつり換をするには、私は余りに自分が貴き前途に使命を持つて居ます。 

 同志会は日米両国の平和、大和魂の振興、奢侈頽蕩の悪風の絶滅を目的とした。賛助員には堤康次郎や田中舎身の名がみえる。

  会では日米開戦論を戒め、国力の充実、国民外交の推進を説く。高崎などでの講演を収録したもので、講談のやうに面白く女子供でもわかるといふ。

 著者の見るところ、会った人の7割が開戦論者。在郷軍人らの中には、

「…日本は宣戦布告と同時に、陸戦隊を布哇に上陸せしめ、それから船で更らに桑港に送り直ちに華盛頓、紐育を突けば、恰かも無人境を行くが如く一挙にして米全土を占領し…」

  これを右からの開戦論とすれば、左からの開戦論もあった。日本が開戦すれば十中八九負ける、戦争に負けたロシアやドイツは革命などで政権が共産党社会党に移った。

日米戦争は漸く吾々革命児の目的を達成する時代が来たんである。現在の一切の資本主義的帝国主義を顚覆する絶好議[機]会が到来したのである 

  とする過激主義団体の宣伝があるといふ。

 渡邊は国力が充実しないうちは開戦すべきではないと主張。しかし愛国心は持ってゐた。スミス女史の飛行来日には敵愾心を露はにする。

スミス飛行士は果して吾が要塞、砲台其他国防上重要なるものをカメラに撮影し去つて行かなかつたであらうか?(略) 私が飛行機を操れるなら、飛んで行つてスミスを米国に帰さず、スミスの飛行機に打つかつて共に墜落して仕舞ひたかつたがと本当に考へたのであります(拍手大喝采)

  十数年来、活動写真についても研究を重ね、特に米国物は大和魂をだんだんに滅ぼすものだと警告する。 

 

大概西洋物の活動写真と言へば、財産百万弗争ひとか、ダイヤモンドの山を奪ひ合ふとか、遺産相続争ひが其の劇の筋でないものはありません。(略)米国政府の深謀遠大な日本征服の日本侵略の国家政策が含まれてゐることに気が付かねばならない。(拍手)

 

   アメリカは映画を通じて、日本人に黄金崇拝の観念を植え付け守銭奴にし、大和魂を失はせる。まことに遠大な謀略だと脅威に感じてゐる。

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「山下清君的奇行」の片岡駿

 これは尤物。『全有連』第6号は片岡駿追悼号。発行年月日がないが、片岡の二年祭に合はせて作られたので昭和59年秋ごろか。後半の追悼集には26人が思ひ出を寄せる。

 片岡駿は明治37年6月、岡山・津山生まれ。昭和57年10月13日、78歳で没。神兵隊告り直し組、勤皇まことむすび、全有連で活動。『日本再建法案大綱』の著者として知られる。最期は壇上で憲法について論じながら倒れ、そのまま帰らぬ人になった。追悼では多くがその悲壮な姿を偲んだ。全国の同志を訪ね歩き、時には突然家を出て音信不通になることから、「山下清君的奇行」との評もある。

 中村武彦「心契五十年の回想」が質量ともに充実してゐる。戦後の片岡の全国行脚の理由について、師と仰いだ笠木良明の遺志を継いだからだといふ。

一たび挫折した日本と満州の理想を実現するには、もう政治家や官僚を相手にせず、無名の庶民大衆の中から盛上る新しいエネルギーに期待する外ない。そのためには全国を歩いて所在の同志と膝つき合せて語り合う。 

  笠木の遺芳録、『国士内田良平傳』、いづれも実質的に片岡が編纂した。『日本再建法案大綱』について中村は「日本思想史上において古典的価値を有する名著であり、維新を語る上で必読の経典である」と強調する。

 写真ページには「君子之交…」の直筆があり、一画一画端正な筆致から人柄がうかがはれる。

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北昤吉「陸軍パンフは未熟なる抽象論」

   同じ旬刊全貌昭和34年3月1日号に、北昤吉が「二・二六事件の真相 私だけが知っている」を書いてゐる。一輝の弟の昤吉が事件の詳細を語る。当日は早大で同僚の親友、武田豊四郎と日本新聞社などに行ってゐる。

 翌年7月21日検挙されたのは、磯部浅一怪文書事件の関係者として。磯部夫人が持ち出した3通の手紙は昤吉、やまと新聞の岩田富美夫、薩摩雄次宛て。そのほかに奉書紙で伏見宮軍令部総長宛てのものがあり、小笠原長生から渡してほしいといふ。

 手紙はやまと新聞社の地下室で写真に撮った。その場には、のちにともに議員になった浅岡信夫、藤原繁太郎、多摩美大専務理事の村田芳太郎がゐた。浅岡は珍しいものが手に入ると敬愛する頭山翁、内田良平翁に届ける習慣があり、今回もさうした。小笠原は仲介を拒んだ。

 憲兵隊本部の部屋の隣は岩田富美夫。飯がまずいから卵を持って持ってこいなどと威張ってゐる。取り調べの憲兵は蹶起将校に同情的で、岩田と同室で口裏合はせもできた。

 昤吉は議会で、事件に影響を与へたのは一輝の著書よりも陸軍のパンフレットだったと追及、パンフに対しては否定的意見を述べてゐる。

 

此等の志士の巨頭は日本の全局に通ずる識者の立案と国民の優良分子の支持を条件として聖上陛下の大権命令に依つて日本の全面的改革の行われんことを熱望している。従つて国家の一部を形成するに過ぎざる陸軍の未熟なる抽象論を強制的に実現せんとする企図に対して大に警戒する必要ありと考えている。政権武門に帰せる国家は覇道国家なりとは、不動の哲理である。 

富士山麓に皇居を造る田中清一

 『旬刊全貌』昭和34年3月1日号、通巻89号に「富士山麓に皇居を造る男」 (陛下にウンと儲けて戴くつもりじや!)の記事。

 その男とは田中製作所の田中清一。日本列島に高速道路を縦貫させる田中プランで注目を集めた。田中は富士山麓に皇居を造営し、陛下にお移りいただきたいのだといふ。記事ではその大構想が披露され、

 

「新しい国つくりなどと、大方、神がかり的な、異常精神の男にちがいない」

「彼の皇居造営案には、必らず、政治的な野心が含まれているにちがいない」

 

などの意見を払拭しようとする。

 大小の見出しを拾ふと「すべてヒューマニズムから」「非生産的なものは高原へ」「そこで凡人の質問をひとつ」「王者の勢威伸長に加えてソロバンも弾く(造営の目的)」「その地こそ天孫降臨の場所―朝倉文夫氏の新説―」「純洋式と純日本式の粹を凝らして……(様式はテンチコンゲン造り)」「〝貴方は汚れた人と逢った〟」「『陛下の安住所』を求めて十年」「岩をよじ、谷を渉り」「打明けられぬ恋を抱いて」「『道つくり』は手段」「ヒューマニズム・ランドの夢は何時?」。

 田中の還暦祝ひに胸像を作ったのが朝倉文夫。朝倉は田中の造営案を聞き、その場所は天孫降臨の地だといふ。「イソハラ、富士、古事記、日本書記、古事拾遺など六つの文献を調べてみて、どうしても、天孫降臨の場所にちがいない」。日本書記、古事拾遺は原文ママ。あと一つはなんだらう。

 

巽忠春「ダイヤモンドは永久的な財産」

 『宝石と共に五十年』は巽忠春著、株式会社タツミ商店発行、有限会社少年社編集、昭和55年発行。函。序文は櫻井欽一、黒澤為重。

 巽は明治39年2月生まれ。宝石一筋で業界の生き字引ともいはれる長老。父の時代からの宝石業界の趨勢と自伝を記す。見出し・小見出し・略年表の構成がしっかりしてゐて、宝石業界のあらましがよくわかる。

 戦前の重大事件は昭和8年11月14日の寿賀野事件。寿賀野は関係者が検挙された、浅草の料亭の名。密輸入された宝石類の交換会が行はれ、23人が集まった。しかしこのやうな交換会は当時、正規では十割関税で、密輸入品が常識だった業界では秘密ではなく、犯罪だとは思はれてゐなかった。巽の留置場には神兵隊の隊長がゐたといふ。シリア生まれのフランス人、ヌーレ・タクラが検挙され、十割関税は業界の要請で撤廃された。

 戦中の回顧には昭和通商が出てくる。日頃、巽はダイヤモンドは万国共通の準通貨であり、物資に生まれ変はるものだと力説してゐた。昭和19年になってやうやくその趣旨が参謀本部に伝はり、昭和通商が全国から貴金属を買ひ上げることになった。巽は鑑定を請け負った。信用を失った日本円に代はって、その3倍分の物資が調達できたといふ。

 戦後の重大事件が日銀ダイヤ事件。巽は進駐軍が接収したといふ大量のダイヤの鑑定をさせられる。その責任者とみられるマレー大佐が、ダイヤを着服したとして軍法会議にかけられた。ダイヤは戦利品で、接収されたものとは別のものだと主張する大佐に対し、巽らは略奪品であると証明するために奔走する。

 戦後の輸入自由化に際し、ダイヤなどの宝石類は贅沢品なので認めようとしない役人に対し、巽がダイヤの価値を説く。 

ダイヤモンドや他の宝石類は辛うじて持ち帰れたのです。引き揚げ者にとっては唯一の財産でした。それを日本で換金して、暮しや家までも手に入れることができました。 

 

 一般に言われている切手やら古本などの希少価値物に何ができるというのですか。あれこそ一部の愛好家が自己満足するだけの品物です。しかしダイヤモンドは違います。何十万年、何百万年たとうが朽ちることのない、永久的な財産なのです。 

 ダイヤは贅沢品ではなく、換金できる資産。工業用ダイヤは製造業にも必要。古本などといふ一部の愛好家の自己満足品とは一緒にするなとおっしゃってゐる。

「国民の良識」は決して眠れる獅子ではない

 『皇室をお護りするために』は、皇室の尊厳をお護りする請願運動全国連絡協議会の編集・発行。昭和36年9月15日初版、11月15日再版。

 まえがきに発行の趣旨が述べられる。昭和35年12月、「わが国における代表的な総合雑誌」である中央公論に、深沢七郎「風流夢譚」が掲載された。

天皇陛下をはじめ皇室の方々をつぎつぎに惨殺するという、陰惨きわまりない情景を、なんの憚かるところもなく露骨に描写した、言語道断の文章である。 

 しかも同様の作品や評論が相次いで公表され、皇室侮蔑の風潮を醸成しようとされてゐる。これに反発する国民の間で、皇室の尊厳をお護りする法律の制定請願運動が盛り上がり、2か月で150万の署名を得た。 この冊子では3章構成で「恐るべき皇室侮蔑の風潮」「皇室と国民」「皇室をお護りするための新立法」について解説する。

 実は「風流夢譚」は氷山の一角で、他にも井上光晴天皇地獄の六〇六号」、雑誌『教師の文芸』掲載の「御璽」「非行少年」などの作品、『近代文学』『読書新聞』『新聞研究』などの評論にも、皇室の尊厳を傷つけるものがあった。

 これら知識人の文章とは対照的に、新聞の投書には皇室擁護のものもあると紹介されてゐる。地方紙のものが多い。「小生も国民の一人として義憤の感を禁じ得ない」(長崎新聞)「『象徴侮辱罪』の法制化はむしろ遅すぎ」(西日本新聞)。

 池田勇人首相は36年4月29日、談話を発表し、このやうな問題は国民の良識に待つもので、告訴などの対応を行はないとした。冊子の著者は、皇室侮蔑の風潮は今後拡大されようとしてゐると警鐘を鳴らす。

天皇と皇室を敬愛してやまないわれわれは、決してその矛先をゆるめてはならない。「国民の良識」は決して眠れる獅子ではない、というあかしを立てるためにも。

 第三章では、占領下で不敬罪の条文が削除された経緯、諸外国の「国家存立に対する罪」の条文を解説。過去の反省から、日記に不敬なことを記しただけでは罪にならないやうにする「公然性」を明記するなど、新立法の具体策を検討してゐる。

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