久琢磨(ひさ・たくま)は朝日新聞社員にして、植芝盛平、武田惣角の両名から武道を伝授された。その大東流合気柔術は後進にも伝へられた。
『風雪 長谷清一自伝』は、久の後輩の自伝。昭和41年8月15日発行。非売品の自分史で、ところどころボールペンで修正されてゐる。
長谷清一は明治40年5月26日、高知県幡多郡生まれ。中村中学から神戸高商に進んだ。相撲が得意で、全国大会の際に久から稽古をつけてもらってゐる。その後、朝日新聞社に入社。
高知→神戸高商→朝日新聞のコースが久と同じだ。
はじめは東京朝日の記者を志したが、受験者1000名に採用枠は一人で不合格だった。阪和電鉄の嘱託、兵役などを終へたところ、転機がやってきた。
二月のある日、当時朝日新聞大阪本社の庶務部長であった久氏から「守衛一名の補充採用をするので受験して見よ」といわれ受験する事に定めた。受験課目は相撲に柔道、剣道と面接試験だけ、矢張り守衛らしい試験課目で受験者は五、六人だったと思う。雪のチラツク寒い日であった。相撲はすでにお手のもので文句なし。柔道は警察官の有段者が揃っていたがまんざら素人でもなく健闘した積り、剣道は軍隊で軍刀術の名でやっただけだったがとにかく思い切り振り回しただけだった。
守衛になるにはやはり武道のたしなみが必要だったらしい。
昭和8年3月1日付で採用され、一日8時間三交代の勤務に就いた。月給50円。梅田の久邸に土俵を作り稽古を重ね、植芝盛平(書中では盛高)の合気武道にも参加した。守衛のみでなく希望者も交じってゐたといふ。
守衛ののち、受付係、発送課と異動し、この間に準社員になった。
読んでいくとこの長谷氏、やたらと酒と縁がある。小学生の相撲大会の祝勝会で早くも酒を呑まされる。
昭和12(書中では9年になってゐる)年、朝日の神風号が欧亜連絡飛行に成功したときは、大賑はひだった。
各方面から送られた酒樽は講堂に山と積まれ営業局では朝から酒々で机の上に上って踊り狂う者さえあり、来客には冷酒をひしゃくで惜しげもなく振舞っていた。
編集部では四斗樽を三階から蹴とばしたので、一階まで酒の滝ができた。
開けたまま放置された別の四斗樽を長谷が見つけて呑んでゐると、掃除のおばさんがやってきて「これは鏡を割る時誰かが手に怪我をして血が出たので洗ったらもうこんな酒は飲めるかといって誰かが小便したのですよ」と教へてくれたといふ。なぜ飲めなくなったからといって小便をしたんだらう、狂乱状態だったのだらうか。朝日にも今の価値観では計り知れないことがある。
戦後、西部本社では糧食部に移された。そこでは、食堂で焼酎を売らせた。
ある朝鮮人と特約して焼酎を作らせ一杯三十五円で売った。これは夕方の五時から九時までに限ったのだが、平常は大体一斗程度だったが、給料日ともなると二斗、時には三斗も売れた。町に出れば金さえ出せば飲めたけれど、手近い所に酒屋はなく、電車賃を出して魚町方面まで出なければならず、そのために社内の食堂で手軽に飲める事は左党には大変喜ばれた。〝長谷焼酎〟の異名さえもらって喜ばれたが、後年「あの焼酎売りは食堂のやった最たるもので、君の功績は偉大であった」とほめてくれる人もあったが、自分はそんな大した功績とも思はず功罪半ばだったと誰にもいっておいた。事実奥様方からは主人が毎夜のように酔払って帰るのは長谷焼酎のためと知って余り評判はよくなかったからである。