水晶で世界中の戦死者を慰霊した金川文楽

 『自伝 素っ裸人生』(金剛出版、昭和38年11月)は、現代流の義太夫金川節を大成しようとした金川文楽の自伝。
 でも義太夫の話は殆ど出てこない。多彩な交友録が興味深く、しかもなぜか宗教者が多い。
 昭和26年9月8日はサンフランシスコ講和条約調印の日だった。金川は同じ日に、慰霊祭をしようと考へた。

 講和条約の締結されるその日に、世界中の戦死者の慰霊祭を大々的に行なうこともくろんだ。世界中といっても第二次世界大戦ばかりではない。第一次世界大戦その他すべての戦争をふくめてである。そして国の別なく、宗教の別なく、階級の別なく、主張を越えてやろうというのである。

 世界中の戦死者を対象とするのは靖国神社鎮霊社があるが、勿論その創建より早い。まだ米軍に占領されてゐた日比谷公園を会場にするため、早川雪洲夫人の青木鶴子に通訳と折衝をしてもらった。
 

 仏教界は各宗派に呼びかけ、キリスト教は富田満に交渉した。しかし主旨は賛成だが、何を目標に祈願をこめるか、ということがどこでも問題になった。観音さまがいいと思うが、それでは神道キリスト教がこまる。十字架では仏教や神道がむずかしい。

 自宅そばの東洋美術館社長、渡辺充枝から水晶を見せられた。直径4寸でも大きいと言はれるのに倍以上もあり、世界に例がないといふ。観音教岡田茂吉が欲しがったが、取り上げて慰霊祭の祭壇に祀ることにした。
 水晶は仏教も神道も用いないのでは…と思ふが、問題ないらしい。
 目黒の羅漢寺から国宝の鐘を持ち出して、これも会場に準備した。エキュメニカルってかういふことでいいのかしらん。
 

 水晶の玉を日比谷公園の新音楽堂の中央に祀った。各国使臣、来賓、満場の参列者の見守る中で、私が祈りをこめて入魂した。このときからこの水晶の玉は、御神体となった。

 鐘は各国使臣が撞いた。この様子はNHKが全世界に中継し、調印会場のサンフランシスコにも流されたといふ。テレビはまだないからラジオであらう。

 もともと金川岡田茂吉の顧問だったが、水晶は式典後、観音教ではなく、神霊教の大塚寛一教祖の手に渡った。
 

 岡田教祖はとにかく科学を否定した。いくら私が忠告しても、医者を罵倒し、薬や注射を排斥する。万物を抱擁すべき宗教が狭い見解で科学を排斥してはどうかと思う、といくら話してもだめだった。 

 その点、大塚教祖は医学は否定しないといふので金川が気に入り、水晶を譲り渡した。これは今でも神霊教本部にあるのだらうか。
 
 
 本書を読んで知ったが、金川が初代笑栽を務めた笑おう会には、浪越徳次郎や早川雪洲のほか、柳原白蓮も第1回発起人に名を連ねてゐる。第1回を昭和24年としてゐる文章もあるが、本書では昭和26年秋。先述の慰霊祭を終へた後だ。
 白蓮は本書の刊行に短文を寄せ、「嫁と姑との関係は宿命的なものなのかも知れない」「文楽さんはよいお母様とよい奥様をもたれた幸せな人だ」といふ。
 白蓮の姑は宮崎滔天夫人の槌子。笑おう会に関はったのは、姑との関係があったのかもしれない。