神様ノ無イ村をめぐって

 お正月だから神様が出てくる本がいいな。『故事物語 御国自慢ト負ケジ魂』は著者不明、出版社不明、作成年不明。昭和10年の日付の記事がある。

 文章はすべて直筆で、カナ文字ルビ付き。文字の上に訂正の線が引いてあったりする。手描きの素朴な絵は着色されてゐる。七福神の由来や「背水の陣」「いざ鎌倉」の言葉の意味などが雑多に書かれてゐる。力作だが現代人が読んで特に面白味があるといふものではない。

 その中の一編、「神様ノ無イ村」だけが異彩を放ってゐる。村長と奥さんが寝てゐると、大きな物音がした。庭を確認して戻って来た村長は、竹を縛ってゐた縄が切れただけで怪しいことはない、と言った。奥さんは、村長の体から「妙ナ冷タサト腥サ」を感じた。その後も村長は相変はらず親切だった。ただ神様のことが大嫌ひで、神様のことを聞くと不機嫌になった。

 ある年、東の国から西の国へ神様がやって来た。村長は病人のやうに閉ぢ籠もってしまった。代はりに奥さんが神様を出迎へた。神様は異様な空気を感じ、「コノ村ハ今恐ロシイ魔物ニ占領サレテイル」と、村長の家に案内させた。神様が大音声を発すると、それは正体を現し、村長を吞み込んで化けてゐたことを白状した。魔物は神様によって、甕の中に封じられてしまった。

 本編からは、特異な点が少なくとも2つ挙げられる。1つは異変の夜ののちの村長の様子。村長は今までと違った田畑の耕し方などを村人に教へた。収穫は2倍にも3倍にもなった。村長さんの薬はただ一服で病人が即座に治った。村人は生神様のやうに敬ひ心服した。決して疫病がはやったり天変地異の災ひが起こったりしたわけではない。村人は村長が居なくなってしまって悲しんだことだらう。世の常ならずすぐれたるものとはかういふものだらう。

 2つ目は文字通り「神様ノ無イ村」にある。魔物は神様によって封じられた。「コレヲ俺ノ仮屋ノ下へ埋メテ了フガヨロシイ」。そのあとはどうなったか。東から来た神様を祀る神社を建てたといふなら分かりやすい。この一編は神社の由来を書き残し、後世に伝へるためのものだといふことになる。しかしさうではない。村には神社はなく、鳥居一つ建てない。神様の社も村長さんのための祠もないのだ。

 本編には明らかな固有名詞が出てこない。外国の翻訳や翻案だとしても通じるくらゐだ。村の名前でさへ「神様ノ無イ村」「神無シノ村トイフ村」。これでは具体的にどこの地名だか分からない。あるいはまったくの作り話で、だから名前も地名もないのかもしれない。さうでなければ、本当にあった出来事が長い時間をかけて伝へられ、その間に具体的な名前が忘れられてしまったのかもしれない。

 



 

キササゲで儲けた栗原廣三

 『自伝対談 薬学の創成者たち』は伊沢凡人編著、研数広文館発行、昭和52年12月発行。伊沢が聞き役となって、21人の薬学者たちに自伝を語ってもらってゐる。それぞれの扉ページに略歴があり、人名事典の項目のやうに詳しく書いてある。

 文学者の家族もゐて、薬学以外の話にも読むところがある。山本有一は作家、山本有三の長男。家庭での有三について、

そとには、朝日の旗を立てたオートバイが待っている、社からはジャンジャン電話で催促がくる、父は一行も筆が進まない(笑)。

 と、ピリピリした雰囲気だったといふ。他人からは良い父親だと羨ましがられたが、実際は違った。蔵書は1万冊で、どれにも傍線が引いてある。

 辰野高司は仏文学者の辰野隆の次男。田中英光椎名麟三野間宏らとアヴァンギャルド文学運動や「夜の会」をしてゐた。その仲間の五味康祐が真剣に文学に向き合ってゐるのを見て、薬学に本腰を入れるやうになった。

 21人のうち一番魅力的なのは栗原廣三。明治21年5月、川崎町生まれ。佐藤惣之助らと文学を論じ、社会主義にも親しんだ。のちに転向し、安岡正篤の金鶏学院の講師になってゐる。転向の理由について「彼らには情がない。人間的つめたさに、すっかり嫌気がさしてしまった」。と吐露してゐる。戦時中は満蒙に薬草調査に出かけてゐる。昭和18年ごろには学院の同志らと食糧協会を設立。東条英機首相の資金で、役員には迫水(久常)も名を連ねた。ハトムギを食糧にする計画だったやうだ。

 『婦人俱楽部』『主婦の友』などの婦人雑誌には代理部といふのがあり、通信販売を行ってゐた。栗原は、キササゲの広告を載せてゐた。キササゲは細長い実をつける植物。主婦の友社はこれで売り上げを伸ばした。編者の伊沢が次のやうに回顧してゐる。

あの社があんなに大きくなったのは、雑誌よりも代理部の力だという話があり、その代理部を儲うけさせたのは、栗原さんのキササゲとかフジバカマ? だったという説がありますが……。(笑)

 雑誌本体よりも、代理部の方が売り上げに貢献したとする見方。これは現代でも雑誌の付録次第で売り上げが大きく変はるのと通じるものがある。

 

 

森比呂志の母「一人じゃ御輿は担げない」

 『川崎物語 漫画家の明治大正昭和」は森比呂志著、彩流社、昭和59年11月発行。森は明治45年4月、神奈川県生まれ。漫画家だが絵は表紙回りと各章のとびらだけで、文章で自身の生ひ立ちや川崎の情景をつづってゐる。父は石工の監督をしてゐて、暮らし向きは悪くない。学校を卒業した著者は家業を手伝ったり遊んだり、工場に働きに出てみたりと自由に暮らしてゐる。漫画については本の後半にならないと出てこない。

 川崎は江戸時代から水質が悪く、工場ができてからは肺病患者も多かった。友達が何人も顔色が悪くなって、結核になって亡くなってゐる。弁当は飯の上に海苔やイカの焼いたの。同級生はご飯なしで、新聞紙にくるんだ竹輪3本だけの子もゐた。竹輪を知らなかった著者はためしに食べてみて、衝撃を受ける。「こんな旨いものがこの世にあろうとは思わなかった」。昭和初年にキャラメル工場で働くやうになって、川崎駅前のパン屋の2階で、女性とフルーツポンチを食べた。女性は涙ぐんで「夢のようなの。とっても嬉しいの」と感激してゐる。

 関東大震災の際の朝鮮人騒動も描く。井戸に毒を入れられたなどといふ噂が広まり、自警団が組織された。しかし森の父はそれに加はらなかった。朝鮮人と親しかったからでも、噂がデマだといふ確信があったわけでもなかった。父はもともと徒党を組むとか寄合をするとかをできない性格で、消防団にも入らなかった。母は折々周囲に謝罪し、入り婿の父を罵倒した。

「この甲州の山猿め、お前さんの国では、みんな、てんでんばらばらに暮しているのかえ。だからお前さんの村じゃお祭も出来ないだろうよ。一人じゃ御輿はかつげないからね」

 隣近所はみんな力を合はせて暮らすのが当たり前なのに、こんな大変なときにさへ協力しない。そんな夫を、ふるさとまるごとひっくるめて非難する。そのときに引き合ひに出したのが祭りや御輿だった。渥美勝や丸山眞男のやうな学歴はないであらう、庶民の御輿論

 漫画とのきっかけは、石工の仕事先で見かけた報知新聞の社告。長編漫画を募集するもので、1等600円。1年分の給料に相当する。10日で描き上げ、見事当選。婦人雑誌などにも作品が掲載されるやうになり、地元で顔が知られるやうになる。

 父は、ポンチ絵で飯が食へるものか、石工の仕事はなくならない、と理解を示さない。仕事先の住職の娘は漫画に興味があり、著者が漫画の作り方を説明してゐる。

 バナナで滑った人がゐても、それだけでは漫画にならない。

「…バナナの皮ですべった主人公はツルリと天に跳ねて人の家の屋根の上に落ちた絵を描く。これを見て読者は声をたてて笑うでしょう。これは奇想天外だからです。そしてこんな馬鹿なことはあり得ないでしょう。あり得ないということは、実際にはこの世ではタダでは見られないということなのです」

 見かけたことをそのまま描くのではなく、机の上で構想を練る。さうして考へたぶんが評価され、原稿料となって作者に支払はれる。漫画の作り方を言語化した早い例ではないか。

吉澤貞一「整理していないラベルはただのガラクタ」

 「手のひらのメディア 吉澤貞一マッチラベルコレクション」は千葉県立中央博物館の展示。会期残り僅か。

 「第一章 マッチラベルを集めた人たち」はマッチラベル収集家、吉澤貞一の紹介。千葉・旧成東の出身で慶応の学生時代から収集し、総数70万点といはれる。海外とは文通で交換し、外国のラベル本を一冊手書きで翻訳するなどの情熱を傾けた。

 「第二章 マッチラベルことはじめ」。明治初期のラベル。仏壇などに使用する火は火打石だったので、マッチを使ふのは抵抗感があった。そこで神仏用の浄火であることを示す文言が印刷された。人気のデザインにはそっくりな類似品が出回る。会社名が書いてあるかどうかで見分けるが、展示担当者も間違へるくらゐ精巧につくられた。

 「第三章 マッチラベルに描かれた生きものたち」。クマの剥製、エビ、カニの標本が並ぶ。ラベルに描かれたいきものを生物学的に同定する試みがユニーク。分類不能の、イメージの中にしかゐない謎ガニだと専門家が指摘する。

 「第四章 マッチラベルから世相を読む」。日露戦争の後、日本一、世界一、東洋一など「〇〇一」のラベルが生まれる。昭和の一時期、「健康」が流行語になり、観光地や旅行関係のラベルに多用される。防諜など戦時スローガンのものもある。

 終はりに吉澤氏の写真パネルがお見送り。「整理していないラベルはただのガラクタ」と、ただ集めるだけではなく整理の重要性を教へてくれる。

 実物のラベルは小さいが、壁面には大きく引き伸ばされたパネルが大量に展示されてゐるので壮観。中央のケースには「大元帥」のラベル。明治天皇を指すので不敬だとして発売中止になったはづが、ごく少数出回ったもの。

大型スクリーンが左右に2つあって、展示しきれなかったものが上映される。4秒ごとにどんどん入れ替はる。これも大きくて見応へがあり、座って見られる。人力車に乗った猫とか、千葉の稲生書房のものもあった。

 満足して帰らうとしたら、第二会場の案内があった。これが「第五章 マッチラベルを通してみた盛り場」。1枚のチラシでは「第五章 マッチラベルいろいろ」で第六章が「~盛り場」だが、4ページのリーフレットでは全五章になってゐる。

 その第二会場、博物館とは思へないやうに妖しい。モダンな女性たちが門の形にコラージュされ、入り口には黒い暗幕が垂れ下がってゐる。文化祭の一角のやう。

 中の壁面にはカフェーのラベルのパネルがたくさん展開されてゐた。デザイン的に面白いものばかりで圧倒される。タイガーは店名の通り虎の絵で、何種類もあるがやけに力が入った描き込み。女性の写真をそのまま印刷したものもある。「悪の殿堂 お兄ちやん」「オバサン」など店名を眺めるのも楽しい。

 図録や本にする予定はないさうなので、第二会場分だけでもどこかで出版してほしい。

 







 

興奮して読めなかった『独歩全集』

 『白梅』は岩手県立盛岡高等女学校報国団発行。昭和17年3月発行が第31号。年刊のやう。報国団は校友会を発展的に解消したもので、16年5月22日に結成式が行はれた。

 直前の5月12日から16日にかけて、精神修養のために六原青年道場での入場体験があり、日本体操や開墾に従事。参加者が記録を残してゐる。上羽長衛団長の巻頭言は12月6日付だが、8日の日米開戦を迎へたあとの記事もある。

 千田洋子は「大東亜戦争詔勅を仰ぎ奉りて」。

ラジオを聞きながら私は、今、この国一億の国民が皆同じ感激に打たれ、同じ決意に燃え、完全に一つの心になつてゐる事を思ひ、皇御民として生れ出でた幸に、涙が流れてたまらなかつた。 

我々が絶対の信頼を置いてゐる様に皇軍は、その実力に於て、どんな国が向つて来ようと、必ず勝てる事は確実である。かうなると勝敗は、その皇軍の勇士の後押たるべき国民の双肩の上にあるのである。しかも、その任に当る者は今や、女性でしかないのである。

 従来男子がしてゐた工場勤務も開墾も国土防衛も、これからは女性がやらねばならない。主婦や母としての務めも重大である。平和な時代への未練を捨て去れと呼びかける。「その心も、血も、肉も、国家の為に捧げなければならない」。

 「あゝ感激の日よ」の板倉康子は隔離病棟に入院してゐる。早朝のラジオを聴かなかったので、看護婦から一報を受けた。

 日米戦始まりたりと聞きし日の脈搏高しと看護婦(ヒト)のつげにき。

 気を沈めねば\/と枕許の独歩全集を一、二頁繰る。目に入らない。強て読まうとすれば一字々々がきれぎれに、大きくなり、小さくなりして、目の前にちらつくのみ、仕方無に布団をかぶり、静かに目をとぢる。念頭を離れぬものは日米戦――。

 午後に待ちわびた母からニュースを聞いた。病室には灯火管制の用意がされた。夜になっても昼間の興奮で眠れない。ベッドの上に座り、胸に手を合はせていろいろのことを考へる。

 噫! 早く元通りの健康体となり、立派な皇国の民として、卒業後は、徴傭令でも何でもどし\/志願して、御国の為に働ける様にならねばならない。

 皇軍の戦捷と、兄の武運をひたすら祈つて寝につく。

 この記事の冒頭では、早朝のラジオの様子を想像してゐる。

ラジオから全日本に、否全地球上に、世界黎明の旭光は放たれた。(略)感激に高調するアナウンサーの声を全盛岡市民は、否一億国民はどの様に感動して聞いたであらう。

 

 

吉田秀雄「正力、前田の爪の垢を煎じて飲め」

 『新聞時代』は新聞時代社発行。昭和33年3月発行の第7集は3巻1号。前田久吉が作家の川口松太郎と対談してゐる。題して「新聞の鬼“前田久吉”」。川口の質問に前田が答へる形になってゐる。

 東京進出について、次のやうに語る。

東京は政治の中心、大阪は経済の都市ということできておったが、戦後はすっかり変って来ましたね。東京重点になって来てるんですね。そうすると、大阪のごときは、経済は縮まってきたし、なにもないところです。(略)大阪だけで新聞をやっているということは無意味だ。

 これからは大阪の発展は望めない。それで経済的にも東京で新聞を発行するのだと語ってゐる。

 追放中は苦しく、身体的にも健康を害した。格子なき牢獄だったと嘆きながら、解除後にアメリカ人の教授が占領政策の聞き取りに来たと回想。感心するところもあるといふ。

アメリカ人は面白いなと思った。一方で追放をやっておいて、他方では、その裏を批判し、調べる。どうも民主主義が徹底しておるな。

 対談時は東京タワーの建設中。まだ命名されず、日本電波塔といってゐる。増上寺に立地した理由として、南洲庵や紅葉館跡が残る由緒のあるところといふ点を挙げ、外国人観光客を迎えることもできる、と効用を論じた。

 この対談の前文に、電通の吉田秀雄社長による前田久吉評が載ってゐる。

「人間仕事をする限り、事業をやる限り、その事業に対して、あくなき貪婪、貪欲というものが、なかったら仕事を完成することができない。前田久吉の残した業績というものは普通の考え方、普通のやり方では残るものじゃないぞ。諸君は前田久吉さんの爪の垢を煎じて飲め、おれは爪の垢を煎じて飲んでいるのだ、この人には頭はあがらん」

 普通でない考へとやり方で事業に邁進する前田。そんな前田を見習へと社員たちに言っているのだといふ。これは前の号の対談に載ってゐるのだといふ。その第6集、昭和32年11月号の2巻4号を見ると、確かに「広告の鬼“ワンマン吉田”に聴く」が載ってゐる。新聞の鬼が前田なら広告の鬼は吉田。対談相手は深見和夫読売新聞社業務局次長広告部長。しかし次号で紹介された文言と、多少異同がある。

…諸君は正力松太郎さん、前田久吉さんの爪の垢を煎じて飲め。おれは爪の垢を煎じているのだというた。この二人には頭はあがらん。

 間違ひではないが、正確でもない。吉田は読売の広告部長との対談なので、正力と前田を並べて、共通した点を高く評価してゐる。これを次号の前田の対談記事では、正力の部分が省略され、「この二人には頭はあがらん」が「この人には頭はあがらん」に編集されてゐる。編集の裁量の範囲内かもしれないが、これでは前田だけの爪の垢を煎じて飲んでゐるやうに読める。実際は、正力と前田の両方のを飲んだり飲めと言ったりしてゐたのだ。

 この「爪の垢を煎じて飲む」といふ言ひ回し、最近あまり聞かないな。

 

 




 

頭山翁「お鯉は女野郎だ」

 『同行』は同行社発行、昭和29年11月号は第4巻第11号。発行編集兼印刷人は齋藤加世。常時執筆者として石橋湛山西尾末広大島豊三木武夫の名がある。

 随筆や引用などを載せてゐるが、特色はゴシップ集にある。52ページのうち23から50ページと、約半分を占めてゐる。

 本多静六がドイツに行くのは愛人に会ふためだとか、下衆な内容ばかり。ゴシップ子は井箆節三から改名した井乃香樹を訪問。70歳でも夫婦生活を営み、夫人の方から求めてくる。万葉集の本を出版するため金策に走ってゐる。

 9月18日の、お鯉の建碑式のことも書いてゐる。お鯉は桂太郎の愛妾として知られ、のちに目黒の羅漢寺の住職をしてゐた。この年は七回忌。頭山翁のお鯉評を載せてゐる。

「…男でも筋が一本通らないクニャクニャした男女郎というのがあるが、お鯉は背骨一本通つている女野郎だ」

 女らしい女ではなく、男のやうな女であることを褒めてゐる。高場乱を思ひ出したのだらうか。 

 岩田芙美夫が出てくるが、これは大化会の岩田富美夫のことだらう。「年増泣かせ」のあだ名とその由来を記す。