万歳発声の投書をした右田東次郎

 『三朝史話』は財政経済学会発行の非売品。12ページの小冊子。

 財政経済学会では裏表紙の広告の通り、『新聞集成 明治編年史』を発行してゐた。各巻約500ページで、明治時代の新聞記事を収録したもの。「読んで面白い明治の大事典」。編輯主任中山泰昌。見本として、第1巻だけ分売された。

 この『三朝史話』は、編年史の第2巻刊行時から頒布されたもの。全集などの月報のやうなものだらう。新聞記事や読み物などを載せてゐる。

 第11号は昭和11年4月発行。「万歳発声の追加」の記事は、編年史の愛読者、右田東次郎からのお便りを紹介したもの。声を上げて祝賀の意を表する「万歳」は、明治憲法発布の時に、東京帝国大学の先生たちが発明した、といふのが定説とされてゐる。しかし編年史には、それ以前に万歳を発声したらしき記事が載ってゐる、と知らせたもの。明治7年2月の郵便報知新聞に、元日に「万々歳を唱した」と載ってゐる。

万歳を唱すること、成程必ずしも大学の先生の創案とは云へず。併しこれ程古くより耳に熟し、気分に熟したものがあるのに、故らに「イヤサカ」などといふ創作が出てくるのは何ういふものでせうか。

 万歳は明治7年にさかのぼるほど歴史のあるもの。だから筧克彦が新しく唱へ始めたイヤサカに今更変へるには及ばない、と論じてゐる。

 この投書に対し、中山生とあるから中山泰昌だらう、中山が感謝と同感の言葉を述べてゐる。「年史を細かく読んで頂いてゐる事を難有く思ひます」。中山自身も、関連した新聞記事があると報告してゐる。明治5年1月の「万国新聞」には、明治天皇の品川行幸時に「祝声(奉拝)三回ヲ奉シ天皇ヲ迎ヘ奉ル」などとあり、万歳といったかは分からないが、無言ではなく何か声を出してお迎へしただらふと推測してゐる。

 編年史をめぐって、発行者と読者が紙上で交流してゐる。

 「鉄窓同愁懇親会」は明治42年3月の東京日日新聞の紹介。刑務所に入ったことのある衆議院議員が懇親会をしようと集まって、会の名前を決めた、といふもの。細野次郎、箕浦勝人、小久保喜七、安達謙蔵、米田穣が発起人で、大竹貫一、佐々木安五郎、小川平吉鈴木力河野広中らが集まった。話し合ひの結果、小川と河野の案による後楽会に決まった。

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軍国漫画のファンだった安田徳太郎

続き。『児童』の軍事熱特集。

 工学士・日本大学教授の古賀邦夫は「少年軍事小説と理学思想」を書いてゐる。子供の頃は江見水蔭押川春浪の小説を夢中になって読んでゐた。軍事小説は場合によっては有益になる。しかし、子供に有害な場合もある。そこで平田晋策の「昭和遊撃隊」を取り上げて、苦言を呈してゐる。

 作品のなかで、武田工学博士は潜水艦にもなり、飛行機にもなる神変不可思議の新兵器で敵機を打ち砕く。敵の近代的な要塞地帯はたやすく陥落する。しかし実際の研究といふのはもっと地道なもの。もっと真面目な武器などをうまく小説に取り入れてほしいといふ。「子供の頭をあまりに空想に走らせて戴きたくない」。

 作家の桜井忠温は「子供の戦争熱」で、フランスで見た、子供の戦争ごっこを紹介。実に整然と作戦を立てて敵情を視察し、持ち場につく。

 日本の子供の戦争遊戯は、何の目標も目的もあるわけではない。旗をふりかざし、竹の棒を持ち、追ひに追はれてといふだけのものである。

 医師で歴史家の安田徳太郎は「子供の軍国漫画」を語る。随筆風で面白い。男女男のわが子たちに日本昔噺やグリム童話イソップ童話、赤い鳥式の文学童話を与へてやったが関心を示さない。「そろひもそろつて下等な本が好きなのである」。軍国絵本や漫画ばかり自分たちで買ってくる。女の子も武者修行や一休和尚、冒険漫画のファン。安田も子供たちの影響で、軍国漫画のファンになった。

 安田の子供のころは日露戦争前後で、古い錦絵風の武者絵があったがそれは残忍なものだった。それが現在ののらくろ式の漫画といふのは残忍性が非常に少なく、朗らかだ。文部省式に反して、下っ端が上官をやり込めたりする。

 なぜさういふ変化が起こったかと考へ、アメリカ映画の影響を挙げる。ミッキーマウスやベティーさん、ターザン、キングコング、大人が見ても面白い。子供にはより一層深い感じを与へるだらうといふ。のらくろミッキーマウスの日本化したものだと指摘する。

 先の古賀や桜井は現状を憂えてゐたが、安田は軍国漫画の人気の理由を分析し評価する。「私は子供の軍国漫画から多くのものを学んだ」。

 

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西村真琴「児童の軍事熱は柿の渋味だ」

 11月発行の『神保町が好きだ!』第15号の特集は「子どもの本と神保町」。50ページオールカラーで子どもの本や雑誌を取り上げ、神田神保町近辺の出版社が大きな役割を果たしたことが語られてゐる。「子どもの本の聖地=神保町」をうたってゐる。実際は神田錦町神田小川町神田駿河台下などを含め、神保町界隈としてまとめてゐる。

 この冊子にはでてこなかったが、刀江書院も神田駿河台にあった。雑誌『児童』を毎月発行してゐた。

 2巻1号は昭和10年1月発行。表紙は横山隆一、カットは棟方志功、石川義夫、益子善六。「子供と軍事熱」といふ攻めた特集がある。6人が思ふところを記してゐる。どれも面白い。日本初のロボット、學天則を作ったことで知られる西村真琴も一文を寄せてゐる。

 児童の心理を察して更にそれを助長せしめたものは少年雑誌、幼年絵ばなしの類であつた。かくして子供は父母よりもよくタンクの形をゑがき、軍艦や飛行機の種類を承知する

 大阪の女子は国防婦人の姿にあこがれ始めてゐて、この傾向は全国に波及するだらうといふ。

 世界には非戦論者や平和主義者がゐる。それらを夢物語と否定するわけではないが、人類が生存競争を重ねて発達してきたことも忘れてはならない。そこで西村は、柿の味に例へて説明する。

児童の軍事熱といふものは恰度果実でいへば柿の渋味のやうなものである。まだ成熟の途中において渋味を必要とするが、その終りにおいて甘味ふくむに足るやうになるのと一般で、最初から、渋くない柿はなく、ありとすれば、種子が発芽能力をもち得ないまでに、虫や鳥に啄ばまれてしまう。初期に渋味の強い程、健全な発達を遂げて種子も熟達し、味も芳しいものとなるところに尊い暗示がある。

 大久保弘一は「児童と軍事知識」を寄せてゐる。大久保は二・二六事件で投降を呼びかける原稿を書いた陸軍省新聞班員。軍人の立場から児童の軍事知識を論じてゐる。

 児童の軍事熱といふものは昔からあり、外国にもある。子供なら皆、兵隊ごっこをする。最近は少年雑誌や新聞も軍事記事や新兵器物語を載せて読者の興味を煽る。

 ところが大久保は、これ以上の軍事知識は無用だとブレーキをかけてゐる。

今日の科学兵器は実に多種多様に亘り、而かも日進月歩である。故に軍人と雖も其方面の専門家でない限り、その全般に通暁するといふことは極めて困難な状態にある。

 かゝる物に対し、如何に興味本位とはいへ、過度の知識を付与するといふことは弊害が無きまでも先づ無益と謂はざるを得まい。(略)将来の為には更に正規の課程を履みたる基礎知識の上に立脚して、根本的に築き上げねばならぬ性質のものである。

 必要以上の軍事知識は無駄なので、年齢に見合った普通の学問をすべきだと助言する。なぜならば現代は総力戦で、軍事以外の分野が重要性を増してゐるから。

国民の全部が剣を持つて直接戦闘に参加するといふ訳ではない。凡そ戦争には国家国民の全力を挙げて当るのではあるが、それには各々持場々々があつて自己の本分と職務に応じて最大限の活躍をすればよいのである。即ち戦争に当る精神に於ては協力一致しても、働く形に於ては分業的である。

 小説や漫画についても論じられてゐる。続く。

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「万世太平の碑」「教学興隆の碑」を建立した青木勘二

 『青木勘二』は奥付、発行所などの記載なし。「はじめに」には昭和49年3月15日。函。

 青木は明治8年3月生まれ、昭和45年7月没。福岡県黒土村の名村長として知られ、高松宮殿下のご台臨も仰いだ。本書は関係者や家族の追憶、自筆資料、年譜などを集めたもの。本文319ページで写真も12ページにわたり、さまざまな場面を収める。五男の青木営治は朝日新聞社員。

 元昭南神社宮司の中村春雄は思ひ出の中で「こんな偉い人は何百年に一人出るという昭和の聖人」と、郷土に尽くした事績を褒め称へてゐる。

 昭和3年4月、村長就任、20年10月、神社の御神木が突然倒れたのに感を得て退任。辞職を申請した文面も載ってゐる。

暴風再挙遂ニ村民崇敬セル神木ヲ倒覆シ且ツ 神門ヲ破壊シ今ヤ昔日ノ森厳全ク拝スルニ由ナキニ至レリ凡ソ 天ノサタマラサルハ人心ノ治マラサルニ在リ人心ノ治マラサルハ任ニ職ニ在ル者ノ器ナラサルニアル 神慮洵ニ畏ク恐懼措ク能ハサル也 

 多くの人が書き残すのは、「万世太平の碑」「教学興隆の碑」を建立したこと。昭和36年4月28日、86歳のときに「万世太平の碑」建立。碑文は「爲萬世開太平」、字は安岡正篤。高さ5・75メートル、幅1・36メートルと、高く聳える。建設地は大正9年、昭和天皇が皇太子時代に陸軍特別大演習のために足を踏まれた所縁の地。

 教学興隆の碑は昭和41年11月3日除幕。碑文は甘露寺受長明治神宮宮司。時に91歳。

 計画書や各地に送った手紙なども収められてゐる。

 昭和44年には憲法改定を佐藤栄作首相宛てに請願。「未来永劫全人類を至極の苦界に陥らしむる最悪法であります」

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天関打開議員聯盟の議員たち

 『天関打開期成会 会報』は巻号の記載なし、昭和17年12月18日の日付。10ページで各支部の修斎会、支部結成、会員倍加命令などを伝へる。

 天関打開議員聯盟の結成を伝へる記事では「一挙貴衆両院議員十六名を抱擁した」といふ見出し。

12月15日までの加盟者を載せてゐる。

貴族院

宮田光雄閣下

衆議院(加盟順)

満井佐吉(福岡)

沖蔵先生(福岡)

深沢豊太郎先生(静岡)

平野力三先生(山梨)

川島正次郎先生(千葉)

遠山暉男先生(埼玉)

菅又薫先生(栃木)

山口喜久一郎先生(和歌山)

長内健栄先生(青森)

村瀬武男先生(愛媛)

正木清先生(北海道)

伊藤三樹三先生(山口)

濱田尚友先生(鹿児島)

深沢吉平先生(北海道)

高見之通先生(富山)

 彼らは「先見の明ある同憂議員の諸士」と期待されてゐる。

 ここで堀幸雄『最新 右翼辞典』を引くと、天関打開議員連盟が立項されてゐて、12月2日に設立されたこと、12月18日現在の加入者の記載がある。貴族院の宮田のほかには以下の10人。

福岡県選出 沖蔵

広島    永山忠則

千葉    川島正次郎

山梨    平野力三

静岡    深沢豊太郎

埼玉    遠山暉雄

栃木    菅又薫

愛媛    村瀬武雄

和歌山   山口喜久一郎

 辞典の遠山暉雄は会報の遠山暉男のほうが正しく、辞典の村瀬武雄も会報の村瀬武男の方が正しい。ほかにも違ふ点がいくつかある。辞典には永山忠則の名があるが、会報にはない。会報に名前があって、辞典にはないのが正木清、伊藤三樹三、濱田尚友、深沢吉平、高見之通の5人。

 会報は15日現在、辞典は18日現在とあるが、そのためだらうか。辞典と会報では、会報の方が確かではなからうか。辞典では満井を含め総計12人、会報では総計16人。

 正木清は社会大衆党から戦後は社会党で、衆議院副議長も務めた。平野力三と同じ転向組みとみられる。濱田尚友は元東京日日新聞記者の新人。満井と同じ17年組が主で、農民出身が多い印象。高見之通は大正6年初当選のベテラン。

 

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赤尾敏「ボクは、新聞推薦選挙だと言ってるんだ」

 『Emmaエンマ』は文藝春秋の隔週刊雑誌。写真が主だが、丸谷才一の連載など文章もある。昭和61年7月23日号は2巻14号。116ページで、ほかの写真週刊誌より厚みがある。参議院選挙に出た泡沫候補たちが載ってゐる。

 表紙では「赤尾敏らホーマツ候補21人のホントの顔」。目次では「言うだけ言って戦いすんだホーマツ候補21人のアブナイ正論」。愛国党・赤尾敏、UFO党・森脇十九男、日本世直し党・重松九州男、MPD・下元たか子、救国党・福田拓泉、老人福祉党・有田正憲、雑民党・東郷健日本民主党・品川司、世界連邦・南俊夫の9人の名がある。

 本文にはほかにも協和党・今野宗禅、みどりの連合・太田竜、全婦会・福田撫子、浄霊会・小林三也、教育党・城戸嘉世子、社会主義労働者党・町田まさる、福祉党・天坂辰雄、誠流社・柴田吉一、日本みどりの党甲賀喜夫、教正連・石川佐智子、無所属・石川ハチロー、自由共和党・沢田正五郎が紹介されてゐる。

 見開きで扱ひが大きいのは赤尾敏で、腕を組んで正座をしてこちらを見てゐる。このとき87歳。赤尾によれば、泡沫候補といふのは朝日新聞が赤尾を落選させるために初めて使った言葉だといふ。東京には50人が立候補してゐるが、新聞が勝手に人数を絞り込んで載せる。「だからボクは、新聞推薦選挙だと言ってるんだ」。「尊敬する人? いるわけないだろう」。

 太田竜は「万類共尊 生類供養」と書かれた法被を着てゐる。町田まさるは、1日4時間労働制を主張してゐる。現在の生活水準なら2時間でいいといふ。柴田吉一は隊服で腕組み、背後の幟には「ソ連の蛮行…」と読める。超過激派右翼の総隊長。沢田正五郎は「えっ公約? そんなものありゃあしませんよ…」。甲賀喜夫の趣味は麻雀。「新聞記者(サンケイ)をやっていて覚えた」。

 老人福祉党は泡沫の連合体。有田正憲の座右の銘は「政治家はホラ吹きでなければならない」。花輪春造は元浪曲師で性病撲滅を標榜。清水王道は数霊手話を世界共通語にと訴へる。党名はあまり関係ない。すごい人ばかりで楽しい。

 下にある広告に目が留まった。高輪のホテルパシフィックのもので、キャッチコピーは「読みたい本がたまっています。」

プールサイドで読むか。ベッドで読むか。昼下りのバーで読むか。それとも、小説のストーリーを地で行きましょうか。楽しみな夏を大切にしたいと思います。

 ホテルに泊まっての読書を勧めてゐる。あさがおコース、ひまわりコースがある。プールサイドは眩しさうだし、バーでは酔って集中できなささうだが、利用者はゐたのだらうか。  

 

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六原青年道場の訓練生を教へた阿部清治郎

 『もうひとつの昭和史 北上山系に生きた人々』は田中義郎・塚田博康・陸口潤著、辺境社発行、勁草書房発売。昭和52年7月発行。疎開、金融恐慌、飢饉、農地解放など、岩手県の話題を14本集めたもの。もとは東京新聞社会面の連載で、加筆したり項目を追加したりして、5倍の分量になった。

 各テーマは「崩れた神話」「炎の日からの記録」「ある英雄たちの伝説」などで、目次を見ても内容がちょっとわからない。その中の6つ目に「惟神の道」といふのがあった。

 これは昭和初年にあった、岩手県立六原青年道場についての話題。道場内の学校で教師をしてゐた、阿部清治郎からの聞き書きが中心で、道場の教育内容や暮らしぶり、あとから振り返っての感慨などがまとめられてゐる。

 道場は筧克彦門下の石黒英彦岩手県知事が開設したもので、筧の日本体操(やまとばたらき)、やはり筧門下の加藤完治の指導にる農業が行はれてゐた。

 阿部は東北帝大で国史を学んだインテリだった。阿部は道場の教育をどう感じたか。

びっくりしたことに、身体がヘトヘトになっている時には、神がかりの話でも「乾いた砂に水がしみ通るようにしみ込んだ」という。「中身は忘れたが、その時はなるほどと思った」

 「あれもひとつの教育方法」と、この談話当時でも感心してゐた。道場はヒトラー・ユーゲントのドイツ青年も訓練したほどの存在、加藤の内原訓練所と並び称されるまでになった。

 しかし著者によれば、六原は内原の二番煎じで、それを払拭するためにより極端に走った。内原の人間からも常軌を逸してゐるといはれ、拷問に近い苦行だったと表現されてゐる。きつい開墾作業、栄養が十分でない食事、日本精神の教育などが描かれる。

 それだけではなく、道場では教へる側が腐敗してゐた。著者は揶揄とともに実態を指摘してゐる。

「惟神の道」の実践者たちは古事記の神々にも似た放縦さだった。男女職員の間の乱れた関係、醜悪な派閥争い、訓練生には禁止した酒を自分たちではこっそり飲む教士たち……。そんな道場の内幕を、阿部さんは「床の間の裏に便所があった」と表現する。

敷地内にあった六原神社も解体され、朽ち果ててしまったと伝へてゐる。