萬里小路操子だった山岸史枝

 衝撃の内容。

まほろばの御沙汰 萬里小路操子姫の生涯』は小山啓子著、自分流文庫発行、平成27年8月発行。著者は代々続く宮司の家に生まれる。新聞に連載小説を執筆したこともある。

 萬里小路操子は「までのこうじ・あやこ」。全3部のうち第1部が彼女に関する文章で、第2部は著者の私小説、第3部は紀行などの随筆。

 著者が回想するのは昭和27年の日本。著者の実家の神社を訪ねて、ある夫婦がやってくる。妻は萬里小路操子こと山岸史枝(あや)、夫は山岸敬明。2人は昭和天皇の名代として、日本が独立を回復したことを報告するため、全国の神社を巡ってゐるのだといふ。その記録はどこにも残してゐないのだといふ。

 父が応対し、小学5年生の著者はその様子を垣間見てゐる。その後何年も経ってから、著者は古事記研究会に夫人を訪ね、晩年施設に入ったあとにも訪問してゐる。

 閑院宮載仁親王殿下の子として生まれた操子は西本願寺別院で育ち、女学校に通った。養育係は九条武子。操子は銀座の千疋屋で山岸宏と出会ひ、頭山翁夫妻の媒酌で結婚。名前を史枝に改めた。戦中の獄中の様子、戦後の下町での歩みや昭和天皇との関はりなどを描く。 

 情感豊かな読み物風なところもあれば、史枝夫人本人やゆかりの人を訪問した思ひ出もある。著者自身は小説だともノンフィクションだとも明記してゐない。

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日本青年協会常務理事・青木常盤

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 『小説 青木常盤』は関豊作、「常盤」編集室発行、昭和50年6月発行。全158ページ。著者は明治30年6月生まれ。中外商業新報、萬朝報などの社会部で働いた。

 青木常盤は会津・猪苗代生まれ。会津中学・福島師範などを経て神奈川農事試験場、鳥取大学、富山農事試験場などで働いた。日本青年協会常務理事。協会は二・二六事件の参加者と交流があり、安藤輝三、鈴木貫太郎にも紙数を割く。

 青木は会津若松市立高等小学校の訓導として2年間授業し、その教へ子たちが常盤会を組織してゐる。著者も教へ子の一人で、本書執筆時、青木は米寿に近いといふ。

 青木の生涯をつづったものだが、話の順序が前後したり、同じ話が重複したりして読みにくい。何よりも参考文献の引用と地の文の区別がわかりにくく、読むのに苦労する。「本書はタイトルを『小説』としてあるが、ノンセクションであり、多少の脚色はあるが単なる伝記ではなく、…」とあり、ノンフィクションのことかなと頭をかしげながら読む。

 青木と安藤が鈴木貫太郎と懇談するところが興味深いが、これもほとんど『鈴木貫太郎自伝』の引用。これと『秩父宮雍仁親王』の引用が後半の多くを占めてゐるやうに読める。折角青木が存命で親しかったのだから、談話を聞くなり資料を借りるなりしたら、もっと価値のあるものになったに違ひない。

 青木の写真も年譜もなく、生年月日もない。猪苗代町長だったといふ、青木の父の没年月日は記す。巻末に著者、関豊作の生年月日は載せる。写真はサンケイ新聞社長と対談してゐるところを載せてゐる。

 日本青年協会は山県有朋の遺言で作られた。総裁清浦奎吾、会長宇垣一成。常務理事が青木で、理事に永田鉄山今村均がゐる。青木は青年将校らに剣道を教へた。

 学監で国学を講じたとされる富永半次郎といふ学者がユニーク。哲学者ともされ、「仏教の根源を正して人類の生き方を是正するバヤダンマ・サンカーラー」を研究してゐる。先述の安藤・鈴木・青木会談にも同席し、国体の話をしてゐる。

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高畑和夫「集金は読者に快感を与える行為です」

『新聞販売の基本』は高畑和夫著、読売情報開発センター発行、昭和50年12月15日発行。

 高畑は昭和6年生まれ。神戸商科大学卒業。マーケティング研究センター所属。大阪読売販売開発訓練委員会専任講師。

 370ページで重みがある。表紙回りにびっしりと「新聞販売の基本」の文字があしらはれてゐる。推薦のことばは丸山厳読売新聞取締役販売局長。

 第Ⅰ部「新聞販売人の心がまえ」、第Ⅱ部「新聞販売業の特質」、第Ⅲ部「新聞の三業務」からなる。当時はほとんどの家庭で新聞を購読してゐることが前提で、購読料も自動引き落としでないなど、今とは状況が違ふところもある。新聞販売の基本は配達、集金、拡張。この三業務を論じた箇所に特色がある。いかに苦手意識を克服し、発想を転換し、やる気を出すか。その方法を伝授する。

 集金は、新聞を売るときのやうにファイトを燃やす人が少ない。しかし集金にも自信と情熱をもって当たるべしと訴へる。

集金は読者のためになることです。読者も払うべきものはいつかは払わねばなりません。支払ってしまえば、その分だけ経済的にも精神的にも肩の荷を下ろします。したがって、集金は読者の気分を楽にし快感を与える行為です。

  さうだったのか…。これを読んだ人は「それならどんどん集金に行かう」と思ったのだらうか。

 三業務のなかでも、やはり拡張を論じた箇所が興味深い。抵抗感を取り払ふためには、役柄になりきることが大事だとアドバイスする。

あまり生身の自分を前面に押し出さず、もう一人の自分を舞台の上で操る呼吸を早くつかむことが大切です。虫の好かぬお客にぶつかった時でも、もう一人の自分を動かしているという気持ちの余裕があれば、少々のことではカッカとこなくなるので調子が乱されません。

  拡張してゐるのは自分ではなく、もう一人の自分。セールスマンの役になりきれば身振り手振りもそれらしくなるといふ。しかしこれだと、契約が取れたときはどうするのだらう。そのときは生身の自分の手柄になるのだらうか。かはいさうなもう一人の自分。

 訪問回数についても、何度も反復すれば成功するといひ、83回訪問した例を紹介。

一旦断ったものを急に掌を返すようなことも言いかね、引っ込みがつかぬままについつい今日まで延びてしまったのだ。済まなかったね。お詫びの印に飯を食って帰りなさい。 

  頑固親父は少年に謝罪し、飯をおごり、一緒に町内を回り、「どうかこの子の新聞をとってやってください」と一軒一軒訪ねてくれた。…これを読んだ人は素直に発奮したのだらうか。しかし何度断られても、あきらめずに訪問するのが大事なのだ。軍隊も宗教もさうしてきた。

昔の日本の軍隊では軍人精神を兵隊に植えつけるのに、軍人勅諭なるものを朝に晩に朗読させました。宗教も教祖の説教を一度聞いたぐらいでは感化されませんが、何度も同じ話を聞かされているうちに信ずるようになります。 

  購読者の管理では、数とともに質の向上を目指すべきだと指摘。絶対他紙に浮気しない固定読者以下、9種類に分類。無代紙を提供してゐるサービス読者、値引き読者、購読料の回収不能読者らを整理すべしとしてゐる。

 

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草莽の大極殿狂人、棚田嘉十郎

 『小説 棚田嘉十郎 平城宮跡保存の先覚者』中田善明著、京都書院発行、昭和63年5月発行。

 平城宮跡の保存に半生をささげた、棚田嘉十郎を描いたもの。実在の人物や団体の名前、趣意書、新聞記事を登場させる。

 棚田は一介の植木職人で、観光客から平城宮跡について尋ねられるうちに興味を持ち、保存運動をするやうになった。跡地は牛馬の糞があったり、小屋が建てられたりと荒れてゐた。運動は単に遺構を整備するだけではない。京都の平安神宮に倣って、奈良に平城神宮といふ神社を創建することを目標としてゐた。

 棚田は神社創建に奔走するが、全くの素人。文字は読めないので、手紙などは周りの人に読んでもらふ。衣食住にも事欠き、上京の費用を工面するにも苦労する。それでも拝謁した小松宮彰仁親王殿下の「しっかり頼むぞ」との言葉を胸に、苦難を乗り越えていく。協力者は岡部長職子爵、土方久元伯爵、土方直行四條畷神社宮司、徳川頼倫、板垣退助ら。保存会の結成、議会への請願、御下賜金の要請、勧進相撲など様々なアイデアが生まれ、実現したり失敗したりする。棚田の思ひは、次の新聞記者との会話によく表れてゐる。

「皇居が今上陛下のお住居なら、平城宮跡も、かつては、天皇陛下のお住居として立派に造営されておりました。いまと昔の違いはありましても、いまだけに大切にし、昔の皇居はどうでもいいのだということになりますと、やがては、いまの皇居も、時代とともに荒廃していくにちがいないでしょう。…」

 文化財的な意図よりも、尊皇の志が原動力になってゐたことが窺はれる。草莽といふ言葉は出てこないが、まさに草莽。

 しかし棚田は、悲劇的な最期を迎へることになる。神式が蔑ろにされて憤る棚田の姿が痛ましい。 

目次的学問といはれた小原龍海

 続き。『漫画』昭和25年7月号には「探訪 御落胤」のほかにも気になる記事があった。目次では「黒幕和尚暗躍す」(進藤朝夫)。ページをめくると、「黒幕和尚暗躍す―小原龍海師のこと―」と、副題がついてゐる。東久邇稔彦の伝記などに出てくる、小原の実像に迫った記事。絵は中村伊助。

 小原は和製ラスプーチンと呼ばれた怪僧。記者は容姿を観察する。

 

重役のように突き出た太鼓腹、幅三センチはたつぷりある太い鉄ぶちの眼鏡、ちゞれた髪の間からぽつかり顔を出している河童的ハゲ頭、読者は古川ロッパを一癖あり気にデフオルメ(変形)した顔を思い出して下さればよい。

 

 小原は明治36年、信州松本に乾物屋の長男として生まれた。のちに東久邇と「東屋」といふ乾物屋をしてゐる。同郷の土建会社社長が「小さいときからボウバクとしてとらえ所がなかった」などと証言。名字も小原ではなく、のちに華族の養子になって改姓した。東久邇とは、宗教観で意気投合した。小原の談話。

 

「二人とも合掌するのが嫌い、あたしは既成宗教は墓守り、お布施屋だと罵倒し、口幅つたいが宗教改革の情熱に燃えていたし、これに東久邇氏も父親王が出家され、広島で不遇な客死を送られたゝめか、宗教的なものを求めておられながらマルクス主義の本まで読まれ…」 

 小原の魅力に焦点を当てた囲み記事では、夫人も登場。妾がゐても気にせず今でも新婚気分だと語る。机の上にはプルタークの英雄伝、ディケンズの小説、仏教の本。小原を批判的に分析する箇所が面白い。

 

思わせぶりな断片的教養目次的学問、本は最初の一ページと最後の一句だけ読んでマルクス資本論だろうがカントの純粋理性批判だろうが言葉の響だけしか知らないくせ、にさも精読したかのようにその一節を連ねて絶え間なくしやべる…

 

 本は目次と最初と最後を見るだけで、全部読んだかのやうに内容を語れる。記者との談話中にも東久邇から電話で質問が来て、普段から頼りにされてゐるやうだ。目次的学問といふのは初めて目にしたが内容は想像できる。表面的な浅い学問といふやうなことだらうが、小原はそれで成功してゐる。

 小原を描いた絵もまた素晴らしい。黒縁眼鏡で、手がたくさん生えてゐる。チェロを演奏し、鍵盤を弾き、絵筆を執り、本を読んでゐる。算盤もはじいてゐる。一面六臂のやうな活動ぶりだ。

 


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霊媒と運命判断をしてゐた山岸史枝

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 『漫画』(漫画社)の昭和25年7月盛夏号(第18巻第6号)。表紙を見ると、口ひげの老人の絵と「探訪 御落胤」の告知。堀川辰吉郎の記事があるのかと思って、読んでみる。

 24ページから33ページまで、5段組みなので分量もある。文章は高比良記者、絵は杉浦幸雄。御落胤天皇に限らず、皇族では星の数ほどゐるといふ。真偽をないまぜにしたり、仮名にしたり実名にしたりして数人を取り上げる。

 山岸史枝(あや)さん(44)は五・一五事件の山岸敬明夫人。彼女は明治39年6月、閑院宮載仁親王殿下の御落胤として生まれた。養家先や略歴も描き、戦時中は御落胤を主張したため不敬罪で投獄された。夫の敬明は皇居御移転を主張して、治安維持法違反で投獄された。

 戦後は夫が日本一の輪タク会社社長になった。

 

一方史枝(あや)さんは、山岸氏の提唱する「互幸精神運動」を宗教的に発展させるため、霊媒と運命判断を看板に、前記の所に〝八祥会〟を開いている。

 

 記者は「半生が事実とすれば」と前置きし、「昭和の日本興亡史の縮刷版」と特筆してゐる。

 北白川宮成久王殿下の子供で、久邇朝融氏と関係したと発表したのが増田絹子さん(31)。「親子二代にわたる宿命」を、記者は感傷的に描く。

 栃木刑務所に服役中なのは疋田フミ子さん。閑院宮殿下の御落胤だといふ。彼女のことはなかなか詳しい。「桃色の恋と桃色の思想と二つの桃色事件」で、女子大を追はれてしまふ。伯父は特務機関員だったが消息を断ち、夫は戦犯として処刑される。再婚後は林町子の〝パン・ネーム〟で女の商売をした。御落胤の根拠に、9歳のときの出来事を語る。

「…養父から『おひげのお爺さまに会わせてあげよう』といわれ、綺麗な着物を着せられて、汽車で小田原まで行つた事があります。

 小田原のお城跡の堀端で、父と二人でしばらく待つていると、立派な二頭立ての馬車が向うからやってきて、私達の傍にピタリと止りました。…」

  この記事では御落胤の範囲が広い。華族や文学者の子供も取り上げる。前田利為の血を引くのが吉村淳子さん(29)。島津忠重の家に住み、同族の物語やモデル小説で文壇デビューした。恩師は佐藤春夫菊池寛の息子は寛のことを「雑司が谷の人」と呼んでゐる。記者が直接インタビューし、小遣ひをもらひに行く様子をユーモラスに描く。杉浦幸雄の漫画は「もう使ってしまったのか仕様がないなア…」といふセリフで、二人で何か飲んでゐるところ。

 最後まで読んだが、堀川のことは出てこなかった。不審に思って確かめると、堀川ではなく尾崎行雄だった。似てる。続く。

日共の潜行幹部を追った日本民族研究会

 『日本旬報』2号は昭和26年7月25日発行。記者同人出版株式会社発行。本文34ページ。巻頭の5ページが桂洋介「動き出した極右団体 共産党に体当り戦術」の記事。

 朝鮮戦争が勃発して、右翼の活動も活発になってきた。その中でも注目の団体を紹介してゐる。東京の日本民族研究会は会員数こそ80人だが、「ほかの類似団体のそれとは全く比較にならぬ粒選りの士」。獄中の伊東ハンニを救出し、その弁舌と演技を利用しようとしてゐるのだといふ。

 同会は特審(公安調査庁の前身)から資金を受け、日本共産党の潜行幹部を追ってゐる。最近北海道の独立青年同志会と提携した。北海道の共産党デモと100人の青年たちが衝突したのも、日本民族研究会の活躍によるものといふ。

 独立青年同志会はもと石原莞爾の東亜連盟の系列で、数百人を擁する。朝鮮人100人と少数の華僑も参加。汪精衛系の華僑などから資金をもらひ、反共を叫んでゐるといふ。

 九州では「祖国期成同盟」「士風会」「クラブ若葉」の3団体を挙げる。いずれも共産党のデモと衝突し、新聞にも取り上げられた。一番過激なのは士風会で、地元も信頼や期待をしてゐる。異色なのがクラブ若葉で、会員の3分の1が女性。その大半は東京の高校や大学を卒業し、理論闘争を得意としてゐるといふ。