霊媒と運命判断をしてゐた山岸史枝

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 『漫画』(漫画社)の昭和25年7月盛夏号(第18巻第6号)。表紙を見ると、口ひげの老人の絵と「探訪 御落胤」の告知。堀川辰吉郎の記事があるのかと思って、読んでみる。

 24ページから33ページまで、5段組みなので分量もある。文章は高比良記者、絵は杉浦幸雄。御落胤天皇に限らず、皇族では星の数ほどゐるといふ。真偽をないまぜにしたり、仮名にしたり実名にしたりして数人を取り上げる。

 山岸史枝(あや)さん(44)は五・一五事件の山岸敬明夫人。彼女は明治39年6月、閑院宮載仁親王殿下の御落胤として生まれた。養家先や略歴も描き、戦時中は御落胤を主張したため不敬罪で投獄された。夫の敬明は皇居御移転を主張して、治安維持法違反で投獄された。

 戦後は夫が日本一の輪タク会社社長になった。

 

一方史枝(あや)さんは、山岸氏の提唱する「互幸精神運動」を宗教的に発展させるため、霊媒と運命判断を看板に、前記の所に〝八祥会〟を開いている。

 

 記者は「半生が事実とすれば」と前置きし、「昭和の日本興亡史の縮刷版」と特筆してゐる。

 北白川宮成久王殿下の子供で、久邇朝融氏と関係したと発表したのが増田絹子さん(31)。「親子二代にわたる宿命」を、記者は感傷的に描く。

 栃木刑務所に服役中なのは疋田フミ子さん。閑院宮殿下の御落胤だといふ。彼女のことはなかなか詳しい。「桃色の恋と桃色の思想と二つの桃色事件」で、女子大を追はれてしまふ。伯父は特務機関員だったが消息を断ち、夫は戦犯として処刑される。再婚後は林町子の〝パン・ネーム〟で女の商売をした。御落胤の根拠に、9歳のときの出来事を語る。

「…養父から『おひげのお爺さまに会わせてあげよう』といわれ、綺麗な着物を着せられて、汽車で小田原まで行つた事があります。

 小田原のお城跡の堀端で、父と二人でしばらく待つていると、立派な二頭立ての馬車が向うからやってきて、私達の傍にピタリと止りました。…」

  この記事では御落胤の範囲が広い。華族や文学者の子供も取り上げる。前田利為の血を引くのが吉村淳子さん(29)。島津忠重の家に住み、同族の物語やモデル小説で文壇デビューした。恩師は佐藤春夫菊池寛の息子は寛のことを「雑司が谷の人」と呼んでゐる。記者が直接インタビューし、小遣ひをもらひに行く様子をユーモラスに描く。杉浦幸雄の漫画は「もう使ってしまったのか仕様がないなア…」といふセリフで、二人で何か飲んでゐるところ。

 最後まで読んだが、堀川のことは出てこなかった。不審に思って確かめると、堀川ではなく尾崎行雄だった。似てる。続く。