熊谷久虎と原節子が参加した座談会

 

『ホームグラフ』は大阪のホームグラフ社発行の月刊グラフ誌。昭和16年1月号は第49号。「日独・生活、文化を語る座談会」が載ってゐる。出席者は独・フランク・フルターツアイテング特派員のリー・アベック、映画女優原節子、青年文化聯盟・音楽批評家の高野瀏、前ベルリン大学講師、日独文化協会の姜世馨、映画監督の熊谷久虎、同盟通信 社の沼邊武。

 編集後記は

 

座談会のよさは、原稿紙に書かれる為めの参考や思考の整頓が必要なのと違つて各人の常に思ふ抱負、見解等が簡明直截に吐露されると云ふこと

 

 と掲載の狙ひを明かす。

 写真では原とアベックが隣同士で、歯を見せて笑ってゐる。アベック嬢は現在、ドイツでは日本に対する関心が高まってゐる、特に天皇陛下に対する観念はドイツにないもので、国体について理解しようとする態度が顕著だといふ。

 一番発言が多いのは姜。ヒトラー政権発足前後に4年間滞独して見聞したドイツの家庭生活、恋愛、結婚について語る。ヒトラー自身が独身でもあり、ドイツは自由恋愛で独身者も多い。ヒトラーは結婚奨励金を出して、家庭を作るやうにさせてゐる。その点日本は年頃になると必ず結婚する。などと日本を称賛する。

現在のドイツの家庭は厳しく批判すれば民族意識的に政治的に構成された家庭であつて日本のやうにいい意味の宿命的な伝統的な家庭構成とは多少違ふと思ふのであります。 

  高野とアベック、熊谷は、ドイツでは妻は夫より先に寝てしまふ、日本の妻はたいてい夫が寝るまで待ってゐる、といった話で盛り上がる。原の発言はここでの一回のみ。

 高野は、映画の「新しき土」を7回も見た人がゐるとか、初めて見た桜の花を忘れられず、眠れなくなったドイツ人がゐるとか、評判の良さを伝へる。熊谷も「日本をあれだけ愛してその美しさを描いたものは日本の映画にはありません」と、自賛する。

 グラフ誌なので写真が多く、「K・D・Fとは何か」の記事では、歓喜力行団などと訳される団体について紹介。太腿も露はに体操をする様子を載せる。座談会の内容ともども、原の感想が気になるところ。


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池田潔「ぼくの読書法は、本を読むことである」

 『第三の随筆』は池田潔著、昭和30年8月、読売新聞社発行。表紙カット鳥海青児。読売新書のひとつ。新書といっても現在のやうな新書版の大きさではない。ソフトカバーで気軽に読めるものといったところか。巻末広告のラインナップには「良識の泉 現代の心」とある。

 池田は明治30年生まれの慶応大学教授。巻頭写真は背広で戸を開けて、生垣の向かうからこちらを見つめるやうなポーズをとってゐる。撮影者丸山和美。

 帯には「謙虚な中にも烈しい抵抗を蔵する著者」と評されてゐる。大学時代の回顧、友情についての考察、マスコミ批判などは、今読んでも古さを感じさせない。

 「書痴来歴」は本好きの真骨頂といった趣の愛書ぶり。

 

ばか気た本だと思っても、読んだことを後悔する気持にはならない。さすがに二度と繰返しては読まないが、この世でのただ一回の出合いを後味悪く思い出すということはないのだ。つまらない本だな、お前は…見るからに駄本然とした面構えだし、つきあっている三時間、四時間も決して短いとは感じられなかった。お前のために利益をうけるということもなさそうだし、これから先、なにかにつけてお前を思い出す機会もなさそうである。だが、お前とぼく、ともにあったこの三時間、四時間は、少くともぼくにとっては心楽しいものであった。じゃあ、ありがとう、さようなら、達者にくらせ…。

 

と、つまらない駄本にも愛着を寄せる。「ぼくの読書法は、本を読むことである」「読む、読む、読む、それ以外のなにものでもないのだ」。新聞も地方紙も含めていくつも読む。活字を読まない人は早死にするといったくだりは性格の悪いところがにじみ出てゐる。

 子供のころの読書環境は充実してゐた。父宛てで未開封の寄贈雑誌を勝手に読んだりした。『実業之日本』『実業之世界』『日本及日本人』の誌名を挙げる。父とは池田成彬団琢磨のあとの三井合名理事。

 

 

スプーンを曲げられる高濱正明

『運鈍根の男の伝』は高濱正明著、ウサミプロダクション共同企画の企画・編集、平成7年11月初版、8年7月再版。

 高濱の自伝。父の●(青+光)作は明治15年1月生まれ。帝国興信所(帝国データバンク)新潟支店長を務めた。正明は大正7年1月生まれ。ウナギの養殖業などののち、茨城・日立で金馬車の名前のパチンコ店やレストランを経営した。戦中のことを回顧し「兵役につくのは当然のこと」「強制されたという思いは、ほんのわずかも、千分の一程もない」。アメリカ人のポール・ソロモンも日本人の礼儀の良さを褒めてゐたと紹介する。

 ポール・ソロモンのことは第5部「精神世界について」に出てくる。高濱はソロモンにも会ひ、「日立第三の目」といふ、精神世界の充実をはかるグループを主宰してゐた。メンバーは茨城キリスト教学園総長・理事長、浅野春三の四男の信、市役所勤務の滝口悟ら。

 

 

 瞑想をすると、額の第三の眼の辺りに薄紫色のものが浮かんでくる。あまり瞑想をやらない時は、白色。もっと集中すると紫色になってくる。私は、五、六年前からスプーンが念力で曲げられるようになった。

 

  ビジネスには見えない力も大切だと説き、「虫の知らせ」による直観力で経営を安定させられるのだといふ。

 

 

日本新聞社の名刺広告の申込書。もう使へない。

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ノルウェーの新聞に載った頭山翁

 『新聞の今昔 激動する新聞戦国史』は河合勇著、新日本新聞社発行、錦正社発売、昭和47年12月。河合は明治32年生まれ、大正12年4月早大英文科卒、東京朝日新聞入社。戦後は日刊スポーツや新日本新聞で働く。

 新聞の起源から説き起こし、大小さまざまの新聞を紹介。終はりに自身の回顧録「新聞生活五十年」を付ける。数が多いので仕方がないが、一つ一つの新聞については短く触れる程度。

 中では自身が在籍し、この本の発行所でもある新日本新聞社については、他ではあまり見ない。同社は昭和21年、小寺謙吉を初代社長としてスタート。

戦争直後の大新聞の多くは、従業員組合の幹部は共産党系の左翼分子に握られ、社説から記事に到るまで全体が左翼支持となって各会社のストライキ騒ぎを煽動する傾向さえ見えて来た。この風潮は放って置けない。 

 そこで関西の財界人らが結集して「日本の良風を守る新聞」を興した。杉道助、古田俊之助、伊藤竹之助、津田信吾、小寺、加藤正人、菊地文吾、大原総一郎、松下幸之助大屋晋三の名前を挙げてゐる。2代目社長は福岡の香月保といひ、著者と親しかった。河合は同紙に毎号社説と読み物を書いてゐる。

 河合は朝日では運動部としてベルリンオリンピックに特派される、二・二六事件の報はノルウェーで受けた。

 

 翌日ノルウェーの新聞を見ると、頭山満の写真が大きく出ていて、日本は右翼の天下になったように報じている。また臨時首相に後藤がなったとして、あご髯をつけ、鼻めがねをかけた既に死んでいる後藤新平伯の写真が出ているのでノルウェーの記者に「これはちがっているよ。後藤文夫だよ」と教えてやった。

 

ノルウェーにも知れ渡ってゐた頭山翁。

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・1888年が2回でてくる。

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三井信「神は唯空漠に存在するにあらず」

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 『聖勅奉行読本』は大正15年12月、聖勅奉行会発行。同会は久我常通会長、三井信理事長。

 陸軍少将・男爵の黒田善治が篆刻した、教育勅語の掛け軸を頒布するために組織された。黒田は尼港事件に出兵した際、病を得て、左半身不随となり帰国。難波大助の虎ノ門事件を契機に思想戦に臨むことにした。はじめ教育勅語を100枚書写し、更に続けようとしたところ、過労となり周囲から止められた。そこで篆刻に切り替へた。書は筆者の性格が表れるが、篆文は人格を超越したものなので、聖句にふさはしいのだといふ。「…命を損することあらんも悔ゆる所なし、寧ろ本願なり」。

 篆刻は研究を重ね、図案にも工夫を凝らしたもの。写真と字解が載ってゐる。「博愛衆に及ぼし」の字句は、赤十字の形。中心の「徳器を成就し」はハートの形になってゐる。「義勇奉公」は楯の形。

 この本はそれらの解説。日本神話についても、祖先の理想信仰が表されてゐるとして、特に天岩戸の前の真賢木を取り上げ、取り付けられた勾玉、鏡、和幣を重視する。

 

識る神は対照を得て、初めて御光を輝かし給ふ事を、神は唯空漠に存在するにあらずして、万我万物なる対照を得、こゝに弥栄の神霊を発露し給ふなり

 

 神はかたちを得て真価を発揮するといふ解釈で、この掛け軸もその考へが反映されてゐるとみられる。

 東郷平八郎元帥の言葉として、 

 

各家庭に於いても、少くとも、毎週一回は、御勅語を奉読して、常に念頭に置かしめ、実践躬行するやう、心懸けて貰ひたい。                                            

 

   とあり、実践を奨励してゐる。  

 

 

・編プロ公妨人柱エンドロール最後まで見る                           

杉田有窓子「その際にお伴を仕りたい心境である」

『天の窓 杉田有窓子詩文集』は東海日日新聞社、昭和47年1月発行。序は宇垣一成。杉田は明治40年豊橋生まれ。同社の前身、東三新聞を創刊した。戦後間もなくからのものをまとめた随筆は2段組みで情報量が多い。岩下壮一神父を描いたもの、財団法人光明皇后会設立者としての挨拶などがある。独特で物議を醸しさうなものに天皇論がある。

 杉田は反天皇制ではなく、国体を護持するためにこそ天皇は退位すべきだと説く。憲法・法律上、天皇に戦争責任がないことはその通りだが、道義的責任はあるはづだといふ。

祖宗の御霊に対し奉り申し開きの出来ぬ苦しさをお感じになっておられるに相違ない。その大きな責任をおとりになって、日本の折り目切り目をつけ、国民に本当の道義の在り方をおしめしになることは、陛下の自発的な御退位によるほかないと我々は考えるのである。 

 天皇制廃止論を抑へるためにも、御退位によって道義を明らかにすべきだと説く。そして天皇崩御したらその神霊はアジア各地に陳謝に行かねばならない。

 天子の御霊はその時にお淋しい限りであるから、もし進んで従者となるを欲する者があれば、これに越したことはあるまい。 というわけで、私はその際にお伴を仕りたい心境である。

 と、断食して昭和天皇に殉死するのだといふ。

  共産主義天皇とも共存できる。

天皇家は長い間鎌倉幕府や北条・足利と共に、織豊・徳川とも共に存続された。平和共存である。 

 杉田の考へはあちこちに広がる。「日本の姿勢を正せ」と題した文章では、ニューギニア移民計画や中野正剛・天野辰夫らとの東条内閣打倒運動などに携はった関田由若の紹介から、天子自決論、皇居跡へのアパート建設論、国会議事堂を納骨堂にして楠正成も徳田球一も祭る論、それから与野党の国会議員を一人づつ交互に座らせる案へととめどがない。

横井時常「悪い縁起はない」

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『ツキをよびこむ 縁起の本』は横井時常著、すずらん書房発行。昭和50年5月15日初版発行で手元のものは51年7月30日の5版。カバー装幀高橋雅之、本文イラスト上田武二。

 手元のものは献呈の和歌付き。「吾が言葉校正もみずなりしふみ後の祭りとなやまし?…」と読んでしまひ、なかなか最後まで解読できなかった。

 名前は時常と書いてトキヒサと読む。靖国神社権宮司などを務め、執筆時は近江神宮宮司。独自の神学の持ち主でもある。

 内容は著者の縁起にまつはる随筆集。語源や解釈は著者独自のものも多い。

 

結論からいえば、〝悪い縁起〟はないのである。すべての縁起は〝吉〟である。

 

 仏滅は本来払滅で、悪しきことを払ひ滅すること。最も縁起がいい日で、昭和天皇が昭和46年に訪欧した日も仏滅だったといふ。

 横井自身の理想の葬儀も一風変はってゐる。

 私の葬式は、祝いの〝祭〟にしてもらいたいと考えている。

 まず、家に紅白の幕を張りめぐらし、みなさんに集まっていただいて、酒を大いに飲んでもらい、陽気にドンチャン騒ぎをしてもらおうと願っている。決して冗談をいっているのではない。

 

 自分の好きな道を歩み、感謝してゐる。発行年の昭和50年には歌会始にも入選した。子孫も健康で、いつ死んでも悔いはないのだといふ。

 読めなかった献呈署名は、ある日ふと読めるやうになった。「なやまし」ではなく、「阿やまり」であやまり、誤り。校正もしてないので「阿やまり多し」と詠んでゐる。