暖かいから桜が咲いた。
『日本及日本人』昭和7年3月15日号(第245号)は三勇士留魂号。爆弾三勇士に対する感想を68人から集め、三勇士を永久に祀る方法などを聞いてゐる。
葉書回答は短い場合が多いが、この特集は長文のものも多い。記念の郵便切手発行(柳原義光)、「永久不変色写真」を全国氏神様のご神体にする(竹内重利海軍中将)、火薬、毒瓦斯其他軍事上有意義なる生きた記念館の建設(安藤徳器)、など様々な顕彰方法が挙げられる。
なかでも独創的なのは佐々木照山。
東京湾中の旧砲台に先づ水上公園を設け、其公園の真中に三士挺身の銅像を建て、此公園を泰爆公園と名づけ、毎年二月二十一日の夜には、各自三本宛の竹の炬火を携へ、其銅像をめぐりて三士爆死の時間一斉に火を点じ、轟然たる音響と同時に会衆万歳の声を発して、当時を偲ぶよすがとすべし。
三士は江下、作江、北川と、三人とも奇しくも水に関係する名字。そこでお台場に水上公園を作って、その中に銅像を建てる。それを巡って火をつけて万歳を叫ぶといふ。堅苦しい儀式よりもいいのだといふ。
公園の名前の泰爆といふのも、照山の発想による。泰といふ字は三+人+水からなる。これは三士の名字が水に縁があることによる。爆の字は爆弾三勇士といふこともあるだらうが、これも意味がある。廿一日人(二十一日人)といって、ヘンの火、ツクリの下の水の部分を除いた部分は日+十+十、それに横長の一。10+10+1+日で、21日。三士が亡くなったのは22日未明だがこの特集では21日夜の出来事としてゐる。
銅像を建てるべしといふ意見も多いが、反対の意見もある。鈴木好太郎は憂慮する。
見よ上野公園や靖国神社の此等を、又須田町広場の者を、中には其不体裁に感ずる有り、烏雀の糞の為めに、あたら面上を汚されたり、心なき人士の為めには邪魔者扱ひを受けたりして、反つて勇士の面目を傷つくるなきやを思ふ。
浅野正恭海軍中将も銅像の建造には否定的で、梅林の造成を唱へる。
梅林とせるは、一は勇士爆死の季節を示し、且つは其の芳香を偲ばしむるに相応せるのと、他は年を経るに従つて益々趣を添ふるものとなるからである。
・さくら公式ガイド、「一命を捧げられた々の霊を慰め」の脱字。