増田宗太郎に心酔し福沢諭吉を尊敬する三浦義一


 前回の続き。仁田越男は大分日日新聞の記者だったやうで、23歳の頃三浦義一の親の数平大分市長と会ってゐた。他県人が災いして他の記者によく出し抜かれるので、数平がかはいさうに思って、大分市上水道敷設計画発表などの特種を与へた。豪放の反面人情美の所有者であった。
 
 義一とは20年前、上京してからの知り合ひ。友人の姫野徳一を通してだった。義一の方が3、4歳の年長。本郷新花町の料亭で衛藤恒彦弁護士(衛藤又三郎大分日日新聞社長の息子)、小幡剛嗣富士工業社長、本田誠二、義一と会合し、二次会は銀座の美人座辺、それから渋谷のカフェー。道玄坂の姫野と三人で歩いた。

 

増田宗太郎に心酔すると共に、福沢諭吉先生を敬慕する情といふもの一見、矛盾するかの如きも、そは心肉を知らざる皮相の浅見者流であつて、二者共通の「烈々たる憂国の至情」に義一兄が共感し感動するがためであつて君の歌集『当観無常』はこれを表現し得て妙である。

 君を囲繞する御手洗辰雄氏星靖之助氏菊池弘氏等浄々(ママ)たる知識人によつて更に大成せられるであらう

仲立ちとなった姫野徳一は終戦後、此声社を興して歌集『今宵妻となりぬ』を出版。ヒットから映画化されホームランになった。そこで信濃路に和紙工場を経営したが、労働争議などが起こり閉鎖した。

 仁田がもう一組会ったのが箕浦勝人・多一親子。勝人には昭和4年晩秋、加来金升アサヒ印刷社長の協力を得て出した写真帖『二豊之精華』を持って訪問した。小僧の話でもよく聞いて、玄関まで見送ってくれた。

 多一とは報知新聞営業局長時代に知り合ふ。御手洗が社会部長で、麻生豊が主脳の似顔絵を描いたりしてゐた。極めて静かで微笑が印象的であった。その後通信社、東京市関係を経て日産系の日本油脂文書課長。

私の下らない歴史書を百部二百部と買ってくれたり、講演の様なものをやつてくれないかと云はれた

 のち日産自動車社長。