言葉が通じぬ宮司

 

所が明治十年頃に矢野先生ともう一人同じやうな人が居て二幅対と言はれた。其の一人は神宮の大宮司をして田中頼庸と云ふ人で、此人は誠に言葉が分らない。それは故あつて大島で育つたので、大島の訛と鹿児島の訛とで鹿児島の人にも分らないことがある。
 さうして又字が分らない。読みにくいこと一通りでない。物を言つて分らず、書いた字が分らぬと云ふのだから、始末にいけない。丁度日比谷の大神宮で下役に向つて何か用を言付け引込んだ。所が其下役が何を言付けられたのか分らないので、困りきつてマゴマゴして居ると、内藤存守と云ふ人が来たから、実は斯う斯うで困つて居るところで、どうか田中宮司に聞いて下さいと云ふと、それは訳はない聞いてやらうと奥へ行つて、今何か下役に用事をお言付けになつたといふ事だがそれが本人によく分らないと云ふから、どうか書いてやつて下さいと云ふと、宜し宜しと直ぐ書いて呉れた。是なら宜いと言つて披いて見たところが少しも読めない。是には困りきつた

井上頼圀「近世歌人逸話(五)矢野玄道」『短歌雑誌』、短歌雑誌社、大正10年8月号、4巻8号、通巻40号p48〜p49

 井上頼圀が矢野玄道の評をした文章中に出てきた田中頼庸の話。末尾に「心の花」第八巻所載、とある。伊勢派と言っても薩摩の人なんね。祭神論争はこの田中頼庸大宮司出雲弁千家尊福で戦はされたのか。間に何人も通訳や伝達が必要になって複雑になったのでなからうか。