所が明治十年頃に矢野先生ともう一人同じやうな人が居て二幅対と言はれた。其の一人は神宮の大宮司をして田中頼庸と云ふ人で、此人は誠に言葉が分らない。それは故あつて大島で育つたので、大島の訛と鹿児島の訛とで鹿児島の人にも分らないことがある。 さう…
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