煙草を買ひに来る吉田松陰


続き。そもそも山本家は長州松陰神社の正面で、境内の1/5は山本家のものであった。吉田松陰は塾から山本家までよく煙草を買ひに来て、歩くときは何時も何か考へる風であった。伊藤博文の父は米搗きに来て、後に博文はお礼に揮毫を書きにきた。
 山本家と対峙する雑貨商の厚東常吉松陰神社を造営し、政治家と成り、ホテルを経営した。西日本屈指の個人財産を築いたといふ。後年山本がその巴ホテルに投宿し悪態をついたが、当主常吉は黙って聞いてゐた。
 上京して救世軍士官学校に入ると、北海道遠軽の桐生権四郎と同室となった。入院した病院小隊に原沢武之助がゐて、のちに社会主義者共産党員、戦後は印刷業界誌の権威になった。
 暇を作っては神保町の基督教書籍専門の岩崎書店に行き、内村鑑三の著書を全部揃へ読破した。感謝祭の募金運動では35歳の芥川龍之介から五十銭の寄付と署名をもらった。社会主義者の木下尚江家からは謝絶された。
 賀川豊彦の『死線を越えて』を読んで感銘して救世軍を脱退。住居を訪ねたところ、本に書かれてゐたやうな三畳間ではなく、高塀をめぐらした中に住んでゐたので幻滅。批判を書いて郵便受けに入れて帰った。
 銀座の東京万年筆株式会社記帳係となった。そのころ、救世軍に出入りしてゐた山本勝之助からアナーキズムを教授される。文学は東京万年筆外交員で同人誌に関係してゐた大槻成美、救世軍本営売店勤務の中村一郎から影響を受けた。
 会社では二十円の薄給に対するベースアップの火付け役となったが受け入れられず、即日退社の羽目になった。
 ここまでだいぶ端折って19歳、20頁。まだまだ先は長い。