山崎清「読書は危険だ」

 『顔の散歩 へぼと立派の考現学』は山崎清著、美和書院、昭和31年10月発行。著者は長くフランスに滞在し、石黒敬七とも一緒にゐた。ムーランルージュの裏にも住んでゐた。執筆時は日本在住。

 古今東西の人物の顔について、個人の感想を書き連ねたやうに読めて、あまり感心しなかった。書名とは関係のない、「本を読むな」の章を面白く読んだ。

 読書は危険だ。自分がえらくなったように感じることが危険なのである。ほかの人の読んでいないようなものをたくさん読んでいると、知らぬまに自尊心が高まって、冷静に他人を見下ろして観察し、判断し、批判する。周囲のひとは、むろん、本を読む人間を敬遠する。だから周囲の人々との間に溝ができる。読書は、人ぎらい、交際ぎらいの性格を養成しやすい。

 読書は自尊心が高まって危険だといふ。読書の間は一人なのだから、当然人嫌ひ、交際嫌ひになる。まっとうな人間なら本を読まずに金を稼げと忠告する。

 山崎自身には「暴力読書」の経験がある。これは一日中本を読み続けること。午前5時間、午後6時間、夜5時間で合計16時間。朝は午前5時か6時起床。しかしこんなことをしてはいけない。本を読むと社会のお役に立たない人間になり、貧困になる。太陽の下でダンスをした方がいいといふ。

 著者は神社仏閣や教会に冷淡だ。建物を見ても感動しない。雨露をしのぐときや、境内の木々を薪炭にするときには役立つぐらゐだとうそぶく。戦争で焼失した神社仏閣を再建するぐらゐなら、医療施設を建てた方が役に立つといふ。

 ここに、神社仏閣の建立費と称して、善男、善女の浄金を徴集して、すっかり集まったところで、素知らぬ顔で、病院と養老院を建ててしまう、がっちりした、或は、いささか頭のおかしいペテン師があらわれてこないものであろうか。

 神社仏閣の金集めは直接批判しない。騙してその金を病院などの建設費に充てる。そんなペテン師待望論を唱へてゐる。これも金集めを評価する著者らしい。著者は次のやうにも言ってゐる。

お金も儲けることだけが生物人間に課せられた唯一の任務だという原則の行われている現代に、本を読んで面白いと思うようでは、もうおしまいである。

 おしまひ。