危険思想に対抗した大河内翠山

 『速記曼荼羅鉛筆供養――大河内翠山と同時代の速記者たち』は竹島茂著、つくば市のSTEP発行。上巻は平成16年7月、下巻は8月発行。下巻に人名索引。

 上巻303ページ、下巻309ページ。分量も多いが、執筆にかけた時間も多い。著者は大正14年3月生まれ、自身も速記学校卒業者で、版元STEPの社長。東大総長を務めた大河内一男の父、大河内發五郎(翠山)を中心にした速記者の群像を描く。

 知られざる速記界の歴史を機関誌や日記、公文書などから浮き彫りにする。時折、取材する筆者が顔を出して、取材対象者の印象や感想を述べるのが面白い。取材を始めたのが昭和40年代だったので、明治の草創期の談話も取れてゐる。

 初期の速記者には国家資格も不要で、自ら名乗ったり独学で速記をする者もゐた。帝国議会のほか、県会、新聞社、講談、演説などに需要があった。速記者の身分は不安定で、議会が休会のときは講談などの内職にいそしむ人もゐた。速記者の日記では大河内は仮病をつかったり給料の前借りをしたりして、内職もする。しかしこれは大河内だけが乱倫といふわけではなく、大河内がゐた大阪朝日新聞、ひいては速記界でも珍しいことではなかった。なほ、その吉岡助次郎日記には白虹事件当時の緊迫した社内の様子が描かれてゐる。

 大内青巒の速記をした荒浪市平は写真付きで出てくる。漢詩人でもあり、柳田国男がただ一人評価してゐた。速記者が勝手に潤色したり、意味不明な速記をしたりして、講演者が不満を指摘した記録もある。荒浪にはさういふことがなく、優秀な速記者だったのだらう。

 大河内は晩年、講談速記で大成し、講談社でも優遇された。速記ぶり、編集ぶりが評価されて、講談師の指名で担当した。講談に注力した理由を大河内自身が述べてゐる。

近時社会主義者等が其危険思想なる思想を、平易なる文章に平易なる講演に依て宣伝しつゝある。之に対して私は旧思想といはれやうと、頭が古いといはれやうと、私の自信する道義観念に由る著作をし、講演をして其危険思想に対抗し来つたのである。

 大杉栄荒畑寒村らに対抗して国家主義を宣伝したのだといひ、息子と対照的な立場に筆者は「ひどくちぐはぐなものを感ずる」と吐露する。大河内一男の「やせたソクラテス」の式辞が報道されたのは前回東京オリンピックの年の3月だった。