中村孝也「それは馬のたぐひでありませう」

  『国史教育の改善』は中村孝也、啓明会、昭和11年8月発行。中村が国史についての意見、改善点などを述べる。時々、わかりやすい例へを交へてゐて興味深い。「歴史といふ学問の本質は婦人のやうなものであります」。

 

純然たる学門として成立つことをせずして、而して最も好んで道徳と結婚しようとして居るのです。されば今ふり返つて見たところの日本歴史の著書の大部分は、或は国体の本義を明らかにするために働き、或は、貴族政治を謳歌することと結びつき、或は仏教と一緒になつて見たり、或は武家政治を讃美して見たり、或は尊皇思想の妻となつて自ら小長刀ふるつて、第一線に出ようとしてをります。

 

やっと明治時代に国史が独立するやうになったが、国史についての教育も本も十分ではない。歴史であっても世界歴史の方が授業時間が多い。しかし国史は人を教化するのに絶大な力があるのだといふ。

 7章のうち、2つの章が「敬神教育の必要」「敬神教育の補充」。敬神の念は人生の羅針盤のやうなものだといふ。

 馬の耳に念仏といふ諺はあるけれど、人にして信仰の念がないならば、それは馬のたぐひでありませう。苦しいときの神頼み、いざとなるときには、自分よりも高く貴く強き神仏の御力に信頼するのが即ち人間の人間たる所以であります。

 信仰を持つことは人間にしかできないこと。信仰心がない奴は馬だと批判する。ところが、学校では信仰について教へない。

私共は明治時代に小学校から大学まで学ぶ間に未だ曽て学校から敬神崇仏の教訓を受けたことがなかつた。それは不幸なる我等でありました。私共は学校で神様や仏様を拝まなかつた。 

  敬神教育の具体例では、教材に皇大神宮の一項を加へること、八咫烏神武天皇のもとに偶然飛んできたのではなく、天照大神のご加護によるものと明示すること、などの改善点を挙げる。続く。