松木行賢「廃仏といふよりは興神であつた」

 『先意堂遺稿』(昭和4年5月発行)は松木行賢の遺稿をまとめたもの。
 松木は新潟の真宗大谷派専明寺住職。安政6年7月生まれ、大正12年4月、65歳で没。
 詩文、俳句、雑著に分かれる。雑著の中に松木回顧録が載ってゐて、明治期の宗教界の混乱が描かれる。仏教と神道を単純に被害者と加害者とせず、多様な面があったといふ。そもそも江戸時代の仏教に問題があった。

信仰なく道徳なく学問や布教は措いて問はず、蓄音機的の誦経を事とし、年忌葬式の飾り物に甘んじ安佚温飽是れ足れりとし、具眼の士には無用の長物視せられた物であつたやうだ。

 同じお経を機械のやうに繰り返すだけで、学問もせずぬくぬくとしてゐた。それが明治維新で一変した。

直垂の神官やら金襴袈裟の坊主やら、珠数かけた手で柏手を鳴らし剃立て頭から烏帽子が辷つたといふ滑稽までが演ぜられた。

 仏教と神道をごちゃまぜにした、変てこなことが起こった。それから世の中が落ち着くと、宗教自由で仏教も布教ができるやうになり、鹿児島では維新前に禁じられた真宗寺院も増えた。

今想ふに還俗沙汰や廃寺合寺は皆是れ仏陀善巧力の然らしむる所であつて、偏に冥祐の大且つ明かなることを仰がねばならぬ、顧みるに維新当初の政府の意見も、廃仏といふよりは興神であつた

 「変化か進化か丸で眼の球がぐるぐるする」ともあり、変化といふことを強調してゐる。

 なほ詩文では「雪中記」が面白い。隣のをぢさんが来て「此雪若金則吾必不貧。此雪若米則吾必致富焉」(この雪がお金だったら貧乏しないし、お米だったら絶対金持ちなのに)「金而積至丈余。人不可棲息」(お金が人の身長よりも高いと住めないでしょ)みたいな会話をしてゐてほっこりした。
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・杉並の江渡狄嶺展、今回は旅行が主題なのでとっつきやすい。思想や交友は追ひ追ひか。日記を見たい。