酒井栄蔵を訪ねた門田勲

 『新聞記者』(門田勲、筑摩書房、昭和38年12月)は書名だけでは新聞記者についての解説書のやうだが、実際は東京朝日新聞記者だった門田勲の半生記。カットは佐野繁次郎
 カバー袖の惹句に力が入ってゐる。

新聞記者ならではの鋭い観察眼、痛烈な諷刺、卓抜な判断、一字の無駄もない簡潔な名文に、新聞記者独得の炯眼は光る。

もっとも記者らしい記者、新聞記者のド根性に徹した記者、それが本書の著者だ。(略)しかし本書はたんなる回想録ではない。時代の渦に中にあって、鋭く時代を見つめてきた記者ならでは書きえない昭和の裏面史であり、昭和時代を共に生きてきたものの異色の世相史でもある。

 「特種のはなし」「おかしなインタビュー」「文士の思い出」「新聞小説のこと」「上海の思い出」など22の項目に、それぞれ短い逸話が連なってゐる。論旨明快ななかに洒脱な筆致で、するする読める。
 門田は明治35年生まれ。ひやかしで受けた改造社の採用試験では「実は将来役人になって出版の取締りをやるつもりだ」と言って入社しなかった。
昭和3年東京朝日入社。当時、東京朝日の名義上の編集発行人で頭山翁への心酔者、藤本尚則もゐた。ロシア革命で皇帝が殺されたときの原稿を、「国民が自分のとこの皇帝を殺すとはなにごとか」と捨ててしまったといふ。
「ある和製ファシスト」の項に出てくるのが酒井栄蔵大日本正義団主盟。書中では日本正義団。東洋モスリン争議の際、会社側に立って介入した。
 朝日では共同の前身、聯合通信配信の記事を使ったが、その中に「会社側暴力団」と表記されてゐたので、正義団から抗議の電話がかかってきた。門田は話をするために酒井を訪ねて説明した。

 酒井は小柄の肥った人で、なかなか福相をしているのは意外だった。
暴力団でなくても、木刀や棍棒でひとを擲ってまわれば暴力団といわれても仕方がありますまい」
(略)酒井はニコニコしながら淡泊にわたしの言い分を聴いてくれた。

 「そのころの親分にはとにかく一種の魅力をもった人物がいた」ともあり、悪いふうには書いてゐない。
 刺客に襲はれた美濃部達吉にインタビューもしてゐる。昭和10年とあるが、11年の小田十壮のときではあるまいか。

椅子に棒みたいにまっすぐ腰かけた博士が、あの大きな鼻をピタリとわたしに狙いをつけ
「新聞が卑怯だと思います」
と厳然としていった。
 美濃部さんが話した通りの原稿を書いた。仰せのとおりとわたしも思ったし、朝日は自分に都合のわるい話も載せるとなれば、信用もふえて新聞がよく売れるだろう。このまま出した方がいいと申し出たが、〝正直と販売政策との関係〟に深くオモイをいたすグガンの士がいなかったとみえて、新聞に載った記事には肝心のところは削ってあった。

 昭和19年、横浜支局時代の「検閲と査閲」も興味深い。

 朝日の各本社には「査閲課」というのが設けられた。すこしでも検閲にひっかかる危険があると思う原稿はこの査閲課を通す。査閲課が、その原稿が検閲をパスするかどうかを「査閲」する仕組だ。
 査閲課は、自分がパスさせた原稿がもし検閲でひっかかっては責任問題だから、大事をとる結果、どうしても実際の検閲よりももっときびしい水準で「査閲」するという、まことに滑稽なことになる。

 朝日の査閲は検閲以上の厳しい基準だった。朝日の社内には危ない記事のスクラップがあったといふ。