日本調査学院を設立した石田武子

 『財界』(財界研究所)の昭和37年12月15日号を読んでゐたら大木惇夫が出てきた。
 「リレー対談 懐しの水野ウドン屋」は大宅壮一水野成夫の対談。大宅は昭和の初めごろ、熱海に翻訳会社をつくり、失業青年らを働かせた。大木惇夫は韻文担当部長。

 大宅 いやいや、僕はあまりやらないボスだから(笑)。それから韻文がたくさん出てくるんだね。韻文は素人は訳せないから、韻文部長として詩人の大木惇夫が入った。
 水野 大木さんにはしょっちゅうわれわれも嘗められておった。ところきらわず嘗める癖があるんだ(笑)。戦争中などよく僕の家に来まして、尾崎(士郎)君や浅野君が集まると、いい気持になって嘗める(笑)。フィリッピンでは本間将軍まで嘗めちゃった。 

 嘗められるといふのは格下に見るとか馬鹿にするとかいふことではなく、実際に舌でべろべろ嘗めた。押さへつけて無理に嘗めた。ちょっと怖い。本間将軍は本間雅晴。水野はやられさうになったが未遂らしい。アラビアンナイトの猥詩の部分を集めて配った大宅は警視庁に捕まった。
 水野のウドン屋は成分などを科学的に分析したので旨かった。のちに木下半治に譲った。
 「暗躍する産業スパイ 国際スパイ団と企業防衛学校の実態」の記事では、開校した日本調査学院に触れる。「産業スパイ養成学校」のキャッチフレーズで、創立者石田武子。

 設立者は石田武子(四十七才)という女院長。満州で陸軍少佐の娘として生れ、十八才のとき満州靖安軍に入隊。表面は近衛公が主宰していた雑誌「政教社」に関係して軍事スパイをやった。

 顔写真の下には「失意の東洋のマタハリ石田武子氏」とあるが、実態は怪しかったやうだ。技術も理論も持たず。諜報と防諜の区別もなかったといふ。生徒もなかなか集まらず、経営できたとは思はれない。この経歴も本当かどうか分からない。正しくは政教社の雑誌が「日本及日本人」で、近衛文麿は主宰してゐない。政教社には永田美那子が働いてゐたので、それをなぞったのかもしれない。
 日本調査学院の元講師らが新たに開講したのが日本企業防衛専門学院。院長は元トルコ大使の栗原正・日本セイロン協会理事長。講師陣は戦艦大和元通信長の深町譲、元海軍省上海報道部長の松島慶三ら。学院の「推進力」とされてゐるのが元城南特務機関長の古谷多津夫。

まことに得体のしれない人だ。戦時中は陸軍や海軍の諜報マンで一時は海軍第三艦隊の下部組織G機関(別名城南機関)のキャップをして八百名余の工作員を使ったこともある。南支那海一帯をうけもち、ある時には奇怪な行動をしていた児玉機関を追跡したという。

 児玉誉士夫側を追跡したくらゐだから、こちらの経営はうまくいってさうだが消息不明。

・明大が行ってゐる本棚募金。本棚の本を提携会社に売った代金を、奨学金に充てるといふ。寄付なので本の提供者の利益にはならない。
 案内に「皆さまの読み終えた本がこれからの社会を担う学生たちを輩出する手助けとなります」とある。本来は「人材が輩出する」といふ自動詞で、「人材を輩出する」といふ他動詞は誤用とされてゐる。そもそも輩出するのは優れた、有能な人物。「社会を担う」のは学校を卒業した人物なら普通のことなのではなからうか。
 そもそも「学生たちを輩出する手助け」といふのが学校目線の物言ひに映る。別のところでは「学生を経済的に支え、未来を切り開く助けとなります」とあり、これなら学生のためになるのだと分かる。
 査定額についても、新しい本ほど高く買い取るやうに設定され、「読み終えた本を本棚で眠らせず、本棚募金に早めにご提供いただく」「新しい本で、より確かな支援に」とある。別のところでは「本棚で眠る本、積みあがったCD(略)が、学生の奨学金になります」とある。本棚に眠る本を活用するやうなイメージながら、実際は本棚に眠る前の新刊を歓迎するやうに映る。
 重箱の隅をつついた感なきにしもあらずですが、全体的にちぐはぐな印象が拭へませんね。